Monday, May 14, 2007

土方巽研究 一<舞踏の欲望>

 二 闇の原理 

3. 闇の歴史              

 土方が「肉体の闇」といい、また「肉体史」と呼ぶものについて、土方の手になる文章に沿ってみてきたわけですが、その文章から推察してみるだけでは、それは土方自身がからだに関わる際の極めて特異な認識にすぎない、そう思われるかもしれません。それは奇怪な考えであり、ただ怪物を生むための妄想のように思われるかもしれません。舞踏の実現という結果から振り返って推測するからこそ実のあるもののように考えることができるのであって、そうでなかったならば、それはでたらめに近いものとみなされるかもしれません。現実に、土方は狂人すれすれのような人物として語られることさえあります。こうした理性の光が差し込まれるとき、それに対して土方には強情に守るものがあって「口に碍子をくわえて」いる、そのことの意味を今一度振り返ってみる必要があると思います。土方はしばしばメートル原器に疑問を投げかけていますが、それは、たとえば二つの度量衡の単位を換算する場合に、どちらか一方の単位を基準に量を定めてしまうと、もう一方の単位に基づく量は正確な数値に換算されなくなるからです。一方の単位が原器とされると、他方の単位量は即座にそれまでの正確さを奪われてしまうのです。それゆえ土方は、「口に碍子をくわえて」、頑としておのれの物差しを基準とすることで、一方的に差し出されたメートル原器のその原器性を曖昧にしようと企てているのです。土方が手にするメートル原器とは、闇にほかなりません。闇は、それ自体計測不可能なものであるがためにそれを基準とすることを光は禁止しますが、それなくしては土方の全活動を考えることができないような役割を果たしているものといっていいでしょう。そしてそれは、ひとり土方のみが基準にしているメートル原器なのではありません。そのことをまず示しておこうと思います。

 イタリアの歴史学者カルロ・ギンズブルグは、「闇の歴史」(1992)を著しています。「闇の歴史」とは矛盾した表現です。というのも、歴史記述は私たちの現在の由来を明らかにしようとして、過去に光をあてるものだからです。いっぽう、「闇の歴史」とは当を得た表現でもあります。というのは、歴史として構成されたものが、構成されたことによって、結果的にその構成から外れた雑多な事実を隠すことになるからです。歴史記述はそうした意味で、闇を生み出すものとなるからです。しかし、いずれにしても、歴史を見るものはその当の歴史に見つめられることになりはしないでしょうか。そうであるならば、「闇の歴史」を見るものは「闇の歴史」に見つめられるのです。
「闇の歴史」は、その原文のタイトルを「夜の歴史」といいます。それは副題に「サバトを解読する」とあるように、ほぼ中世ヨーロッパ全域にわたって知られる、夜に恍惚状態になって出かけてゆく者たちをめぐる研究であることに由ります。それはたとえば魔女であり、ベナンダンティと呼ばれる、季節的に恍惚体験に入ることのできる人たちのことです。彼/彼女等の言動は、当時、異端を告発する人たちの手によって、キリスト教文化の文脈に還元されて記録されていました。こうした異端裁判記録を資料としながらも、ギンズブルグは、従来の異端者を裁く側から眺められた歴史記述をいったん白紙に戻すかのように振る舞っています。そして、記録されているその言動から、支配権力による「迫害が消し去ろうとした文化の断片」を丹念に拾い集め、そしてそれらを再構成しようとして、歴史に関する新たな記述を試みているのです。たとえば、ベナンダンティが語るような恍惚体験を伴う民衆の想像力が裁判記録として記されようとする場合、その多くは当時のカソリック体制の文脈へと還元され、変形を加えられることになります。というのも、このとき民衆の言葉を一定の言語の枠に嵌めて記録する者たちは、社会の成員を整理しようとしてただ一つの支配言語による統制を押し進める主権的な権力下にあり、その支配言語によって、民衆の声となってあらわれている「混乱」した想像力を一定の視野の内に配置づけようとするからです。同じイタリア人であるピエル・パオロ・パゾリーニは、こうした支配言語に対してつねに問いを投げかけ、「イタリアには、実際上のイタリア国語というものは存在しない」(「Heretical Empiricism」)という考えを現代にいたっても踏襲していました。こうした権力による配置づけは、したがって即座に行なわれようとすることもあれば、ゆっくりと時間をかけて行なわれるものでもあるわけです。ギンズブルグは、民衆の想像力が一定の視野の内に配置されてゆくこうした過程に、権力と民衆という二つの文化の間で交わされる心象形成の闘争を見ており、その心象形成の変動する過程を明らかにしようとするために彼の記述は、歴史としていったん形成された配置を新たに解こうとする試みとしてなされているのです。具体的にはそれは、サバトに集う者たちや「夜の合戦」に参加する者たちが、一様にどうして夜に飛行するすがたとして語られているのか、どうして動物に変身するすがたで語られているのかといった、ひとつの型にはまったすがたが形成されてゆく過程を明らかにすることでした。ところが、そうした研究のさなかに、「キリスト教文化に還元してしまおうとどれほど努力してみても還元不可能なまでに異質な、あるひとつの文化を表現した声」を、裁判記録から読みとることの可能性が浮上してきたというのです。民衆の想像力が、その生の表現を何ものかに仲介させてあらわそうとするとはいえ、その仲介するものが決してそれ以前の歴史から自由であるとはかぎらないのはもちろんのことです。ところが、ここに見出されているのは、西洋の歴史に「還元不可能な声」が一部の民衆の表現を仲介している、というものです。審問記録のように厳格な形式の文章から浮上してくる、みずからが拠り所とする歴史に「還元不可能な声」とされるこの異質なものが、私には土方のからだが継承しようとする闇の系譜との関連を強く示唆するもののように思われてなりません。
「肉体の闇」として際立たせられる土方の視線は、通常の肉体認識を拠り所としないのみならず、暗さの経験(「内部」)に向けられた執拗な反復を通じて、その視線とは異質な闇黒の背景としての、「肉体史」という文字通りのものを連れてくるとみなされています。そこで、もしみずからの歴史に「還元不可能な声」と知られる、その異質なものを跡づけることのできるような「闇の歴史」が考えられるのであれば、おそらくそれは、闇というものを歴史的に構成しようとする記述であるよりは、土方が「肉体史」を示そうとした過程に知られるような、おのれに埋没することでそこに非在する緊張として見出されてくる、「埋没する歴史」であることの意味を明らかにするものであるかもしれない、そう考えるのです。
 さて「闇の歴史」の第一部は、支配権力のエピステーメーが民衆の雑多な想像力との間で形成されてゆく、その形成の過程に関わろうとするもので、主に歴史資料を検討しつつそのことがたどられていきます。しかし、検討するうちに、そうした形成過程をくぐり抜けているような異質な混合物が際立ってくることが知られ、最終的に、「動物への変身と夜の集会への飛行」が、「今まで分析してきた諸要素よりもはるかに深く遠い文化層から出てきたもの」である、そう結論づけられることになります。いっぽう、そのように結論づけられた、みずからの歴史に「還元不可能な声」をたどろうとする試みは、第二部以降において、人の行為やその表現された形態、すなわち神話や儀礼、慣習形態に関する資料をもっぱら検討するという、形態学の手法が採られることで進められていきます。人間にまつわる様々な形態を眺める方法をもってして「深く遠い文化層」を読みとろうとするとき、列挙される数々の形態のなかでもことに例外的なもの、その異例な細部に視線が向けられることになります。つまり、形態の同質性に注目してそれらをひとつの意味の下に繋げてみるのではなく、同質の形態という格子でもって逆に例外的なものをあぶりだすことで、そこに奇妙にも持続している、ある種の基層であるような暗い背景を見通すよう注意が払われることになるのです。そうした「例外の検証」を通じて、たとえば、ヨーロッパのあちこちに伝えられている死者の行進に深く関連する「夜の女神」という形態の細部から、死んだ動物の骨を使ってその「動物を再生させる女神」の力に注目が向けられ、するとそこに、「骨からの再生」という異例な主題が浮上してくることになります。そして、その主題がヨーロッパのみならず、ユーラシア大陸に向けて広範に分布しているという事実が知られることになります。さらに、この「骨からの再生」という主題を検討してゆくと、そこに否応なく、自然である肉体を私たちが認識せざるをえないような、からだに関する起源のような場が介入してくることになります。この場とは死のことですが、先にことわっておけば、この死とは、生者が死者であることによって死に臨むような、死に関わる体験のことをいいます。
 この死の境域は、歴史学が殉ずる因果関係によってはけっして明らかにされることがありません。膨大な記録と文献を俯瞰的に眺め、それらの情報を「類質同型」の格子で枠組みしてゆく形態学の手法を逆手にとることで、それは「闇の歴史」にもたらされるにいたったのです。純粋に形態学的な基準に従って「骨からの再生」という主題に関わろうとして、具体的にヨーロッパから中央アジアの草原地帯にまで広がるシャーマニズムにおける恍惚状態の形態の類似性を列挙し、そして精査したその結果、ことに跛行や片足、歩行異常の一致とその伝播の持続に、ギンズブルグは注目することになりました。そして、最終的に次のような内容に導いています。

 モルッカ諸島のセラム島で採集された、人間の起原に関する神話によると、石は、人間が片手、片足、片目で、不死であることを望んだ。バナナの木は、両手、両足、両目があり、子孫がつくれるよう望んだ。言い争いをして、バナナの木が勝った。だが石は、人間が死ぬよう、要求した。この神話は、生き物の特徴が対称形にあることを認識するよう促す。それに、人間だけに限られないにしても、より人間に固有の特徴、つまり直立歩行を加えるなら、左右対称で二本足の生き物に直面することになる。歩行の不均衡を中軸とする神話や儀礼の超文化的普及は、おそらく、その心理的根源が、人間が自分自身についての、その身体的イメージについて持っている、基本的な、最小限の知覚の中にある。したがって文学的、あるいは比喩的地平で、このイメージを変えるものは、人間の限界を超える経験の表現に特に適することだろう。つまり恍惚状態、あるいは通過儀礼によって、死者の世界に旅することである。(「闇の歴史」)

 当然のこととして知られてはいますが、人間がみずからもつ身体的イメージはおそらく広く世界に共通し、また時を超えて確固たるものとして保たれてきたのです。そして、それから逸脱しようとする身体経験上のイメージがあるわけですが、実はそれは、みずからの身体的イメージに由来しながら、人間が人間であることの限界を超えようとする心的体験のうちに開かれたものとしてあらわれてくる、そうギンズブルグは考えるにいたっています。そして、この人間の限界を超えようとする心的体験を表現する場の一つが、恍惚状態になって、すなわち夜に飛行し、動物にすがたを変えることによって、「死者の世界に旅すること」なのです。このとき、人がその「死者の世界への旅」に際して動物に変身したり、また跛行したりするといったすがたであるのには、確かなと思われる理由があります。それは、人間が確固としてもつ身体的イメージの対称性が、その限界を超えてみずから表現しようとする心的な働きの場から逆に眺められ、そしてそこに変形を加えられるとき、生と死の世界を行き来するという新たな次元の対称性と交換されて形成されたものであると考えられるのです。要するに、生と死を行き来するという新たな対称性の次元を手に入れたことで、その証として、左右対称という身体的イメージの対称性が禁じられることになった、そう考えられるわけです。
 こうした、人間の限界を超えようとする心的体験は、それが、象徴的な形態が形成されようとする機会であっても、最初から身体の経験に深く関わっている、そう考えられることになります。つまり、象徴的なすがたとして人間のかたちを欠けたものにしたり変形したりする場合があるけれども、それはあくまでも人間の身体をもった人間としての経験に由来するのであり、そのことを度外視した形態にはなりえないわけです。たとえば、古来、様々な図像において奔放な象徴形態が表現されてきたわけですが、それらの形態が身体の経験から離れた場で表象されたイメージにすぎない場合には、そうした単なる想像活動によっては、「歩行の不均衡を中軸とする神話や儀礼の超文化的普及」といった事実と同じような歴史性を説明できないわけです。身体経験を通じて伝承されている象徴形態であれば、それはけっして超越的なものの形象化であったり、あるいはまた恣意的な想像ではありえず、実は人間が人間であることの型に深く関わっている、そのことに限定されているのです。
 したがって、私たちが自然を逸脱しようとする心的体験の場を身体経験の場と言い換えてもいいわけですが、その身体経験の場においては、人間が人間であることの型が、原型として深く私たちのからだに根を下ろしているもののようにして強情に働くことになるのです。それは原型として、からだをめぐる人間の自己表現を条件づけ、身体経験の場に形態的なあらわれをもたらしている、そういってもいいでしょう。ギンズブルグは、私たち人間が原型を逸脱しようと自己表現するその心的体験の場において、こうした身体の自己表現があくまでも枠組みとして、つまり「形態的性格を仲介する要件」として、心的体験の場に作用する、という仮説をたてています。そうでなければ、逸脱であるがゆえに、またたとえ逸脱であるとはいえ、身体イメージ、いわば人であるすがたとして根強く伝承され難いのでしょう。この逸脱した身体イメージというものは、身体をめぐる私たちの経験を練り上げ、その経験を「潜在的に普遍的な象徴形成に転換することができる」身体経験の場があることによって、持続的に、広範囲にわたって、遠い過去から伝承されているものであることの可能性が見出されたからです。
 こうした内容からすれば、「死者の世界への旅」に際して、私たちの身体的イメージの対称性が生と死を行き来する新たな対称性の次元へと交換されるようなその変動とは、けっして想像の場において知られるのではなく、人間の身体経験として何世代にもわたって反復し反復され、そうした記録として知られ、そして受け継がれているような一つの場において見出され続けている変動である、そう考えることができるかもしれません。そして、そのとき身体経験に関わる対称性を途切れることなく連続させているという意味で、その変動は「対称性の変容」という変動なのです。このことを仮に歴史的な視点で眺めれば、私たち人間は、身体経験として世代を超えて反復し反復されながら継承しているような一つの場において、身体に関わる対称性を壊すことなく変容させようとしてきた、そう言い表すことができるでしょう。こうした変容をもたらそうとする生の志向性が、私たちの身体経験のうちの特異な場に隠れていると考えられるわけですが、それは、「死者の世界への旅」という、人間を逸脱する経験によって初めて知られ、そうした経験を介してのみ受け継がれている、そのように想定することもできるかもしれません。そうであれば、そのように逸脱する身体経験の場が世代を超えて広く伝播する事実にこそ、「闇の歴史」として見出されるものがあるように思うのです。
 とりわけ「死者の世界への旅」、すなわち死の体験において、からだについての自己表現が形態的性格を仲介する要件として働くと考えられるにいたったことは、「闇の歴史」という「還元不可能な声」を跡づけようとする作業の中でも注目に値します。この死の体験とは、自分が死んでいるという心的体験のことです。むろん、この死んでいるという心的体験においてさえ、身体的体験が知られているはずなのであり、しかし、このとき身体を空間として捉えることができない性質のものであることから、ギンズブルグはその体験を、「零度の身体的体験」と言い表しています。ギンズブルグは、こうした死の身体的体験において、以下のような三つの特徴と役割があることを例証しています。まず死者(動物)のからだであること、そうした逸脱したからだであることで初めて死者と交流ができること、そして、死者との交流によって生の世界に豊饒な意味を用意することができること、というものです。この死者との交流によってもたらされる生の豊饒な意味が、「死者の世界」から帰還した人が示す形態としてもたらされ、その形態に内蔵されているはずのものであると考えられます。しかし、この「死者との交流」という比喩的な表現についていえば、その実際の身体的体験は、この表現とはかなり異なった感覚を伴うものだといえるでしょう。それは、たとえばシャーマンが見る夢に知られるような、自身のからだが一度ばらばらにされ、そしてふたたび新たに生まれる人間のからだへと注意深く組み立てる過程であることを、すなわち「骨からの再生」であることを、ギンズブルグは示唆しています。この「骨からの再生」とは実は、自身のからだが解体されるというとてつもない恐怖のさなかに人間の身体についての明晰なヴィジョンが見出され、そこから新たなからだが(実はこの新たなからだの態勢こそが生の豊饒な意味にほかならないわけですが)よみがえるごとくに実現されるという、解体されることによって懐胎するような体験なのです。死の身体的体験とは、文字通りの「死者の世界に旅する」ことの体験なのではありません。それは実際には、「私」と「私」の身体を解体し、新たな態勢を伴ってふたたび目前の身体としてよみがえることの体験なのです。したがって、「死者の世界への旅」に際して、「対称性の変容」が、私たち人間の身体経験として世代を超えて連なるような一つの場に見出され続けていると考えられるわけですが、対称性を壊すことなく経験されるその変容とは、「私」と「私」の身体が解体され、新たな態勢を懐胎することのとてつもない緊張をはらんでいる、そう感じられる身体の体験として知られるものなのです。
 こうして、みずからの歴史に「還元不可能な声」として読みとられようとするその死者の声は、私たち人間の身体経験のうちに埋没するようにして知られている、そうとしか示され得ないものであることがわかるように思います。その声は、死に関わる体験、すなわち「零度の身体的体験」という、死が転倒されているような事態へと翻訳されることで、初めてからだに知られることになるわけです。「闇の歴史」を見るものは、こうして「闇の歴史」に見つめられることになるのです。「闇の歴史」に見つめられることで知られる死の体験によって、死を見るものが死に見つめられる。死に見つめられるとは、死が転倒されて捉えられているような事態であり、それは逆説的にも、私たちの生がいかに志向し、いかに構成するかを知らしめる体験として示されることになるのです。それゆえにこそ、「私」の死を体験するこの「零度の身体的体験」は、私たち人間を強く魅惑しているもののように思われます。死は生に対立することから、人間にとってあらゆる対立を生むことの根源と考えられているわけですが、そのことよりもむしろ、死は、人間であることの型を、すなわちその身体的イメージを、少なくとも思考の上ではこうした「零度」から開始できるような地点として知られてきたのではないでしょうか。この「零度」は、身体を身体性の起源において、いわば身体の未生状態において捉えることができる、そう示唆しているのです。「零度の身体的体験」とは、「零度」であることで、私たちの身体とは何であるかを知らしめる場なのです。それは、私たちが人間であることの限界を超えようと志向し、欲望している、まさにその現場なのです。しかしそれにもかかわらず、結果的にはみずから構成し、形態的な逸脱を生んでしまう場でもあるのです。

 死に見つめられるという「闇の歴史」の最終地点から、自己が表現するというよりも、生そのものが自己表現するような、私たち人間の身体経験として知られ、そして身体経験としてのみ連綿と受け継がれているような一つの場を想定することができるように思います。この死の体験という場においてこそ私たちの生は、自然を超えようと欲して、人のかたちを逸脱しようとするのです。そうした試みの際に私たちの生は、「私」と「私」の身体が解体され、新たな態勢が懐胎されるというとてつもない緊張を体験することになるわけです。そして、そうした体験を介してこそ私たちの生は、身体に関わる対称性を、「対称性の変容」として途切れることなく受け継いでゆくことになると考えられます。対称性に関わるこうした生の表現は、当然、身体の経験なしには知られません。その一端が、「闇の歴史」に見つめられることで、私たちのからだに知られるにすぎないのです…。
 こうした、いささか強引な解釈に駆られるのは、いっぽうで、「闇の歴史」という作品を通じて、おそらく作品を成り立たせていると思われる、ある衝動のようなものがとりわけ注目されてならないからです。それは、ギンズブルグの思考が私たちの身体の闇のような領域を扱う際に、何か激しくぶつかり合い、取っ組み合うようなことが起こっている、そう感じさせるものです。それは、前に述べたような「零度」であろうとすることの欲望と、それを人間であることの身体的イメージに従わせるものとが対立し、そのことで緊張を抱えている、そうした地点が際立たせられているからではないかと思います。そして、この緊張はまさに、からだに記し記された事態をめぐる私たちの身体的現在というものを鋭く指摘しているのではないでしょうか。すなわち、私たちは、純然たる「零度」を目前にしている。人間は、この「零度」と別の存在などではありません。そのいっぽうで私たちは、歴史的人間というものが構成される環境に直面している。この環境においてこそ、人間が人間であることを逸脱する作用が、実はそれは人間が「零度」を欲することに原因しているのですが、逆に激しい対立と緊張を抱え込むような身体的現実をつくりあげている、そう考えることができるからです。いわば私たち人間は、人間の限界を超えて自由であろうとするその欲望が、人間であるゆえの逆接的な作用とせめぎ合うさなかで、結果的に錯誤としての身体的現実をつくりだしている、そういうことになるでしょう。ギンズブルグは、私たち人間の身体的現実をめぐって対立し、緊張し、交錯し合う、こうしためくるめくような体験に面接しているように思うのです。
 そのことを必ずしも示しているわけではありませんが、「闇の歴史」という緊張を抱え込んだテキストについて、ギンズブルグは「歴史を逆なでに読む」(2003)の最後の章で、当のテキストを織り成す困難さが、歴史記述と構造記述の交錯によるものであると明かしています。この証言を拡大解釈して、歴史と構造が交錯する事態について、次のように言わしめる誘惑に私は抗することができません。歴史とは、私たち人間が現在から過去を振り返って眺める視線に基づいているものだとするならば、いっぽう構造主義の構造とは、目的として未規定である無のようなものが、果てしない過去から現在に向けて放たれている視線に基づいているものであると。この構造という理念によって私たちは、歴史が欲する理性とは逆に、起原なき起原から見つめられる、そのことを欲しているのだと知るのです。その欲望のうちでは、人間の身体的現実は「零度」から出発しているはずです。ギンズブルグは、こうした人間の身体的現実をめぐる視線に関わることのできるような、歴史に還元しえないものとして伝承されている身体経験、すなわち「闇の歴史」になかば見つめられているはずなのです。
 この身体的現実に、ギンズブルグその人だけが向き合っているというわけではありません。繰り返して言えば、私たちのすがたとは、こうした対立がすでに歴史的に配置されて私たちの目前にあるものとしてある、そう言ってもいいでしょう。この対立が容易に見えないのは、対立のさなかでなされている選択が、私たちひとりひとりが生そのものに関わろうとする目的感覚によるのではなく、どちらかといえば、歴史的人間を構成する力によって否応なく配置されてゆく傾向にあるからだと思われます。したがって、こうした対立を抱えている身体的現実を身体意識として明確にし、さらに「危機」の感覚として際立たせ、そして、たとえばその対立をそのまま人間の身体というものの明晰なヴィジョンへと変換できるならば、私たちの身体をめぐる事態はおそらく異なったものになるにちがいありません。私たちの身体的現実として見出されている、このからだに記し記されている事態というものは、歴史が進行するさなかにあってさえ、解体され懐胎し続ける場として新たに見出されるような、そうした真の潜在性を開示するやもしれないのです。

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 わたくしの体には、バラバラにされて何処か寒い所に身を隠したいという願望があります。そこがやはりわたくしの帰る所であると思うのですが、そこでカチカチに凍って、今にも転倒しそうにまでなって、この目で見て来たものは、やはり、死ということを死に続けるものたちへの親近感に尽きることだ、と納得しているわけです。

 比較的早い時期に、「犬の静脈に嫉妬することから」(1969)という文章で、土方はからだが解体されることの願望と、そこにあらわれる死者のヴィジョンについて語っています。こうした身体的ヴィジョンを、土方がどうしてもっているのかは知りえません。同じ頃に書かれた「アジアの空と舞踏体験」(1968)というテキストで、土方は、大戦時がもたらした自身の大陸幻想の一端を、哈爾賓の怪奇な身体技芸と連動させて語っています。ユーラシア大陸とまやかしの身体を繋ごうとする土方のその直感的な視線が、一瞬あたりを暗くしているのがわかります。そして、その後の「肉体に眺められた肉体学」で、「肉体の闇」の境域や「肉体史」の暗い作用を示し、私たちの整理された肉体認識をあたかも切り裂こうとするような狂者の妄想のごとき展開がなされるわけですが、「闇の歴史」を背景にしてそのことを見直すと、そこに卒然と土方の黒い影が際立つような光景が浮かんでくる気がします。その影は、広くユーラシア世界を背景にして立ちすくんでいるようにさえみえるのです。「闇の歴史」に見つめられることで見出される、私たちの身体的現実をめぐる可能性というものを背景とするならば、土方が語る言葉を、私たちの身体経験に知られ、そして身体経験として受け継がれているような闇の歴史に関わろうとする具体的な表現として、それゆえ私たちの歴史—身体的な経験へと遡行し、その遡行を自覚させてくれるようなものとして、土方と共に見ることも可能ではないかとさえ思われてくるのです。
 たとえば「一本脚」についてみれば、それは「闇の歴史」において探査され、その結果私たちを魅惑し続ける、「零度の身体的体験」を匂わせるようなものとして仮構されている、そうみることもできるでしょう。限りなく人間をはぐれるような身体に近づこうとするその強度は、死に関わることの体験に近接可能なものなのです。死に関わることの体験とは、死という還元不可能なものを、「零度の身体的体験」として内部へと転倒させる事態でありました。そのとき、逆説的にもその体験は、生がいかに志向し、いかに構成するかを知らしめようとしているのです。このとき土方は、そこに錯誤を構成させる力にこそ注目しているようです。そればかりではありません。土方は、その錯誤の構成される場に、感性に至らない粒子と呼ばれる、ばらばらで未生の、潜在力のようなものを関わらせようとしています。そしてそのことは、具体的に次のようなからだの体験として実現されようとするのです。すなわち、死者という、「私」とは異質であり、「私」をばらばらにするモノを、自身のからだに再生させるような体験として。
 舞踏することは、「肉体の中で妄執に近い形成を遂げている」ものの秩序を逸れようとするそのとき初めて開始される、そう土方は言います。だから、このとき土方のからだは、この「妄執に近い形成を遂げている」モノをからだに見出すことのできるような位置として際立たせられている一本脚、すなわち「零度」であるような身体的体験の方から錯誤の形成に近づくことになるはずなのです。ここに、「零度」であるような身体的体験が意図的な視線となるような、視線の形式を逸れるという意味で、「からだの入れ換え」が起きることになります。この「からだの入れ換え」は重要なできごとだ、と思います。このとき、からだを貫く視線は、「零度」であるような身体的体験というただ志向するものが、私たちのからだに現象する錯誤の形成を見つめるという、まるで亡霊のような視線となって土方のからだに関わってくるからです。そして、おそらく土方は、からだに記し記されているという私たちの身体的現実を、このような亡霊の視線が関わるからだへと変換してゆく、そのことが舞踏という表現のその内容を支えることになる、そう考えるにいたっていると思います。「肉体という巨大都市を、肉体という埋没史が尾行する」。今にも肉体史という亡霊が一人歩きして、肉体を介して歩行し始めるかのようなこうした表現が、そのことを示しているように思います。
 この「零度」であるような身体的体験が錯誤の形成を見つめるという、このときからだに関わってくる亡霊のような視線—認識とは、自他を想定することで成り立つ視線—認識の形式をようよう保っているような、あるかなきかのものに支えられてやっと知られている、そんな認識活動でしょう。土方は、この危うさにようよう保たれた「迷い」であるような場に、いざりのように腰をへし折って、すなわち自己を不明にするようにして、その身をあずけるのです。すると、そのからだにおのずと、自己の不明であるような認識活動を染め上げるようにして、死者の記録としての身振りが立ち上がってくるのでした。
 こうして、土方のからだが、「死者」と呼ばれるからだに潜在するものを際立たせようとする際に、歴史に還元しえないような身体経験の闇に、土方のからだはただ見つめられようとしているだけのようです。土方はただ、私たちの先祖から伝えられている、生が自己表現するその原理を背負うようにして、「からだのふるさとに向かって動いた」のでした。そのとき土方は、風化現象として歴史的人間のからだに伝承されてきた死者の記録と、「零度」であるような身体的体験、すなわち主客も見分けられない「肉体の闇」に際立たせられている視線—認識とを、重ね合わせているだけだということになります。ここに、自他の形式は忘れられていると言っていいような、それにもかかわらず、あくまでも意識化された身体表現の方法が知られることになります。重要なのは、その表現に際して、事物であるからだと自己の不明な認識活動とが出会っている事態が目指されていることです。「見たものを忘語のように語るからだと金輪際夢見られない肉が併合されると、意外に宝物を発見する」。この宝物とは、死者たちがおのずと土方のからだに立ち上がる際に、そのからだを切り裂くようにして発せられる、その出会いの成果としての、モノによる身振りのことでしょう。土方のからだは、いまや多くの「白い顔」があらわれ、多くの死者たちが見つめているものとなります。こうして、ばらばらで未生なものの潜在力が死者の記録となって立ちあらわれるようなからだが、その身振りが、ヴァーチャルな「肉体の闇」を変容させるようにして、アクチュアルに示されようとするのです。

 かくまでも解体され、そして肉体の生い立ちが現在として際立たせられるような、明晰なヴィジョンとしての肉体認識が懐胎されるとき、土方がある時期の東京で身にまとった廃虚をからだから剥がし、それに代えて、自身が生まれた土地であり、自身の歴史—身体性を伝えている東北をからだに抱きかかえようとする姿勢を鮮明に打ち出してくるのは、むしろ当然のように思われます。この東北は、必ずしも日本の東北にかぎるわけではありません。それはいわば、ヘゲモニーを逃れている死者たちの、歴史に「還元不可能な声」が叫びとして根を下ろしているあらゆる風土のことであり、土方にとってそれは、とりわけ自身のからだに記し記されている、その歴史性に関わるために不可欠な風土としての東北であったわけです。そしてさらに、反西洋的な姿勢を全面的に打ち出した「肉体の叛乱」を終え、しばしの潜伏期間をはさんだ後の「四季のための二十七晩」、そして翌年の「静かな家」の舞台が、土方の東北という歴史の闇の光景を描き、また死者たちを続々と登場させたのは、歴史の闇を受け継ぐ亡霊のような視線を闇そのものの核として、暗黒舞踏の表現形式を生み出そうとした、そのことゆえの必然であったと思われます。そして、そうした姿勢を自身の肉体においてぎりぎりまでつきつめた表現が、おそらく「静かな家」で土方みずから独舞する場面であったろうと想像します。その長時間にわたって無限へと静止するかのような動きは、現在にいたっても語り継がれています。死者たちに支えられて土方の肉体が突っ立つ、その光景を裏づけるかのような記録が残されています。土方がソロで踊った部分に関する、土方自身の覚え書きが残されているのですが、その中にこう記されています。

  重要
「死者は静かにしかし限りなくその姿を変えるのだ(。)彼等は地上のものの形をほんのふとした何気なさ(を、)備用(借用?)する事も珍らしくない。」(土方巽全集二)_()と()の中の部分は筆者による補足

 どこからの引用でしょうか。土方自身の言葉であるかどうか不明なのですが、ここには、土方のからだに立ちあらわれる死者に関する重要なことが記されています。「肉体の闇」を際立たせる視線が錯誤の形成を見つめるという極めて特異な事態にあるとき、肉体に関わる亡霊のような視線の主体はこうした死者なのである、そう土方のからだは求め、またそう舞踏しているのです。その舞踏する主体はあたかも微かな虹の光のように、静かに、しかも絶えまなく振動しているかのようです。しかし、虹のような光とはうって変わって、それはもののかたちにふと何気なく錯誤するのです。だからそれを、微細な意識や神経の震えのようなものととらまえてしまってはなりません。それは、あくまでも土方のからだに立ちあらわれた死者(の記録)—歴史性が自己表現するものとして示されるのであり、したがってそれは、土方個人の意識や記憶にけっして還元されないことによって、土方の身振りにあらわれてくるものなのです。たとえば、それらは「馬肉の夢」であり、「武将」であり、「女王」であり、すると「女王」は「関節の小箱」におさめられ、その箱の中から生まれ変わってあらわれるのが「踊り子フーピー」であるようにして…。
 この死者とは、今まで述べてきたように、死霊や、死者の物語とは何の関係もありません。あえて言えば、「死者の国」へ旅する者のように、死者を通じてみずからが解体されたがっている、そうした意味での死者であると考えられます。死者は、からだに記し記された事態がばらばらになるような場にあらわれ、その解体の証人として要請されるのです。つまり死者とは、からだに記し記されたそのことがモノのようにしてからだに把握されているのと同時に、そのことが死者の記録としてそのままからだに再現されるというのではなく、記されたそのことがいったんばらばらにされて再生される、その「骨からの再生」に伴うからだの緊張をもたらすものとして要請されている、そう考えられます。それゆえ、こうした「零度」であるような身体的体験に見つめられることで成り立つ表現行為というものを考える場合、そのことに意識的に関わるだけでも極度の緊張、それゆえの非日常的な感覚が要請されたにちがいありません。土方が、1960年代に実験的なパフォーマンスからその表現活動を始めたことを考慮すれば、こうした非日常的な感覚の要請と土方の身体表現行為とは切っても切れない関係にあったのではないかと考えられます。したがって、「零度」であるような身体的体験に関わることの表現を新装の「劇場というテーブル」にもちこむことの問題が、土方の前に大きく横たわっていたはずなのです。
「静かな家」を公演する際に、土方は妙な告白をしています。

 静かな家に住んでみたいと思って四十六年たちましたが、静かな大騒動が起こっている家の中に現在も住んでいるという訳です。…そういう食卓にこぼれるものがこぼれているように舞踏家の中からも闇がふんだんにこぼれていくのですよ。もちろんこういう味覚が劇場というテーブルの上に盛られるのですが情けないものです。
 ところがこのなさけなさが重要で私達の踊りにはいかなる絶望も懇願も役にたたなくなる訳です。(「静かな家」)

 ここには、土方の「闇」と「劇場というテーブル」とが、齟齬をきたすのではないかという不安が垣間みられるような気がします。一般に、演劇の発生は死の表現と深く関係していますが、しかし現代の劇場はもはやそうした記憶とは無縁であり、むしろ逆に、超越的な視線を劇場の構造のうちに最初から棲まわせているわけです。土方が見せたいつ終わるとも知れない、静かにしかし限りなくその姿を変える死者による舞踏は、そうした劇場が配備する視線に必死に抗することの表現であった、そう考えることもできるでしょう。土方巽の舞踏表現は、そのからだに死者を立ち上がらせることの視線にぎりぎりに迫り、そして終にそのまま、劇場の彼方に消滅するにいたったのです。「ほとんど静止に近い身の動きによって、手で掻いて宙を飛ぶように移り、ついには屏風の彼方に見切れていく」(「土方巽の舞踏」2003所収・石原慎太郎「土方巽の怪奇な輝き」)ものとなって消えたのです。「このなさけなさ」は、その消滅を予感させるものでしょうか。
 ともかくも「静かな家」の舞台をもって、土方巽がみずから舞台上で踊ることは終わったのです。「真っ黒こげになって」発見され続けている、闇が孕むものを一瞬示したかにみえたその肉体は、舞踏のさらなる段階へと、静かに移っていったのです。