Thursday, May 24, 2007

土方巽研究 一<舞踏の欲望>

 四「病める舞姫」と差異的意識 

2.「病める舞姫」印象

3) 夏の景
「風に引っ張りまわされた髪の毛のなかにも温もった臭いをかこった人が腐った甕のそばに立っている。」
 こんなふうに衰弱した人が、忽然とあらわれます。「その人のからだの崩れが活発になってきている」ことから、それはおそらく、土方自身のすがたなのでしょう。夏の炎天下に、「自分の影を耕したり掘り起こしたり」するようにして自身が自身を語る、そのすがたを言うようです。
 夏は、春に張りつめ、そして食べていたものを、徐々に気が抜けたようにさせてしまいます。夏の空気は臓腑を腐らせ、あらゆるモノを呆けさせてしまうのです。そのため土方は、長十郎梨にかぶりつく少年を思い浮かべるだけで安心しています。いっぽう、夏という季節は、なぜか外国風と関係しているようです。夏には、「目には見えない色情がねばついた影に隠れて、表を一人歩きして」いるせいなのでしょうか。それとも外国風には、コロニアリズムに見られるような、暑さに崩れる美学が隠されているからでしょうか。この崩れる仕掛けを抱えた「芯まで腐ったような」外国の風に、土方の病も関係しているふうにみえます。
 一瞬、夏の葉影の奥に雪の光景が繰り広げられ、突然、その雪原が鯨となって泳ぐ光景は実にすばらしい。その雪の切身を切り出している覆面をした男は、癩病者だ。こうして炎天下に「闇が腐りきると、そこに懐かしい洞ができ」、ふたたび少年が活気づくのです。

「縁の下から這いあがってくる湿り気を含んだ風は、私とそっくりの出生を持っていて、その風の中に蜘蛛や蜘蛛の巣もひっからまっていた。」
 少年のからだの「縁の下」から風が吹き上げ、「蜘蛛の巣」、すなわち少年の神経網のようなものが、土方の顔に絡みつくようにして見出されています。その蜘蛛の巣には、記憶を堆積させた、その堆積作用も絡みついているはずなのです。
 脊椎動物の神経細胞は、その個体の一生を通じて変わることがありません。内臓器官のように、細胞の交替がないからです。だから、神経系には反復としての記憶が記されたままにある、そう知られているわけです。記されたその記憶が空間系を構成するいっぽうで、神経網がニューロン発火によって一瞬一瞬の記憶局面を描き出す、その一瞬一瞬の記憶作用の局面こそが、その個体にとっての、むきだしの現在でもあるわけです。それは、空間系と違ってはかない。はかないけれども、その一瞬一瞬に描かれる独自の記憶作用として、それは特異なものなのです。そうした記憶作用を、土方は「あがりぶちに座ってその風に足の裏を浸す」ようにして、頭ではなく、あくまでも足の裏で捉えようとするかのようです。実際、足の裏には神経網が集まっています。この足裏の感覚を出発点にして、記憶作用をたどろうとする風が、土方のからだの隅々を貫通してゆくのです。
「足が足に話したがっているのだった。足はうすい羽をつけた蛾のようなものになって縁の下の谷底に降りていったりした。」
 この「縁の下」とは、意識下のことでしょうか。とにかくそれは、臓腑を腐らせる「炎天下」と対照的な場所であることは確かです。
 夏の暑さは、永遠のごとく続くようです。次から次へと夏の光景があらわれては消え、夏の記憶や印象が消えてはあらわれ、土方は「炎天下」から「縁の下」へと、少年のからだを見定めようとしているかのようにみえます。犬に幽霊、黴に乾燥鮫。こうした脈絡のなさと変幻が、夏に食べられることの正体かもしれません。ここには行方も見つからないし、よみがえりもありません。とはいえ、いっきに語り尽くそうとするこの緊張の高まりは何だろうか。ちなみに乾燥した鮫は、三日も水につけないと、かたくて食べられないしろものです。

4) 晩夏の景
「わざわざ考えるまでもない箸が、もしかして私をいつも呼び続けていた声だったとしたら、という知恵の欠けた不安が、そのまま私の頭に沁みていっていた。」
 箸は、いわずと知れた食事の道具です。が、それは「食べる」ことに介入していて、そのことを曖昧にする役目を引き受けているかもしれないのです。それが美しい塗箸であればなおさらです。箸は食事作法に関わり、「食べる」行為を矯正するものなのです。だから、箸に対しては様々な戦いがからだで演じられ、そのことがからだに刻印として残されているはずなのです。「食べる」ことの欲望に介入し続け、そのことを曖昧にしている箸は、こうして未解決の問題として私たちのからだの前にあらわれてくるのです。しかし、「食べる」ことにおいては、「食べる」ことを中断させてその痕跡や刻印を検証することよりも、何はさておいて、「食べる」現在の欲望が先行しがちになります。だから、この「食べる」ことの一寸先、欲望の鼻先にある「虫の髭の迅さ」、この「虫の髭より迅い」欲望には用心しないといけないのです。もしくは、「からだを衰弱させて」、粗大な自己を暗くさせれば、かつてのからだの神経に触れるような微妙な迅さを、そのとき見てとることもできるのかもしれません。「暗がり」に隠れている鼠捕りや鳶といった、でたらめの空想の罠や餌食になることから逃れさえすれば、「もう二度と見ることもあるまいと思われた少年の私が、犬の動悸をつけて帯を垂らして、今そこの手の届く暗がりにぼんやりと立っているのだ」。
 こうして、夏にかけてとうに忘れかけていた少年のからだの微妙さが、ふたたび見出されようとしています。少年はいつものように「暗がり」に立っていますが、しかしこの少年は、今まで何度も「暗がり」に見出されてきた少年とはちょっと雰囲気が違っているようです。土方は、少年のからだに記し記されているものを見定めるかのように、意識の速度を異常に緩め、スローモーションの光景をつくりだしています。そのため、この少年は、変な光を宿した流体に仕上がっているかのようにみえます。その流動状態を失わぬよう、土方は目に入ってくるものをかたっぱしから歌うようにして語っていきます。そうやって土方は、「私の少年」という流動体を激励するのです。それは少年が流動体であることで、少年が「ものの形を真似る」ことの変動が土方自身のからだにかなり親しげに重なってくる、そのことが大切とされているからにちがいありません。
 少年は「暗がり」の中にあって、周囲に透明な神経をはり巡らしています。その神経はあたかも蜘蛛の巣のように、そこに死者のすがたが捕えられるのを待ち構えているのです。ある記憶作用が、蜘蛛の糸に絡まった虫のようにしてひっかかる。その記憶作用は乾いて透明のままです。そしてその記憶作用は、誰のものでもないようにして扱われなければなりません。そこにけっして「私」が介入してはならないのです。そうでなければ、透明ではなくなるでしょう。そうした「私」という汚染から脱している事態を、「足の裏の闇に私の足が飼われ始めている」、そう土方は言い表しています。この足裏の闇とは、思考の光に対立するもののことでしょうか。そのとき、「もう少しだ、もう少しだ、と励ますのは誰なのか」。それは思考ではないから、ひょっとして記憶作用に隠れている、何かしら生のエネルギーのようなものなのかもしれません。
 こうした記憶作用そのものを回収するために、土方は「私の少年」を核にして、記憶作用であるものならば何でも磁石のようにからだに吸い付けてゆくのですが、今は、「竹製のおもちゃの蛇」が何にでも噛みついてゆきます。このおもちゃの「蛇の関節は滑るように伸び」たり縮んだりするのです。蛇は「白い骨」となり、その骨の仕掛けによって、少年でさえ気づくことなしに、周囲のモノにかたっぱしから噛みついてゆくのです。この蛇は、暗いものに勝手に飛びかかっていきます。たとえばそれは、捨てられた枕です。「この枕から激励が生まれた」。この蛇は土方の思考を離れて、少年を独自に活動させる働きがあるようにみえます。すると、土方と少年との関係に一瞬の変化がみられます。
「未発達の霊の働きによってか、空中で燃えている無花果の砂糖漬、その壺のせいでか。私の向こう側で嵌め込まれたような動物になって、私の少年は私を不審そうに覗き返しているようだ。」
 少年が独自で活動する様子がみられはしますが、「不審そうに」という表情に、何かしら曖昧な雰囲気がみてとれます。逆に少年は今、土方の声を待っているようです。少年が動物のように独自に活動するという事態に、土方は一歩遅れをとっていると感じているのでしょう、土方はいっきにそのずれを埋めようとします。けれど、「そこへおまえの蛇は飛びかかってきたのか。そこは淋しい場所なのかどうか判ったら教えてくれ。」
「少年を照らす明かりは、光そのものか、光に絡んだ幽子のようなものか。」
 竹製の蛇を介した土方と少年のこの関係は、かなり曖昧なものになってゆく傾向にあります。しだいに「視界が霞んできた」。土方は何もかも手放して、少年の息になってしまいたかったのだけれど、「急に私は、思い出に息切れしてきたようだが、もうとうに息はなくなっていたのだ」。
 この顛末は最後に行き場のないものとなり、「手にしているのは始めから蛇などではなかったかも知れない」、そう土方は自分を言いふくめています。「竹製であっても空気の殻であっても、脱出を願っていたのには変わりはない」わけですが…。
 記憶作用そのものを回収するに際して、土方は色々な実験を始めているようです。「蜘蛛の巣」や「竹製のおもちゃの蛇」といったものは、そうした実験道具と言っていいでしょう。それは、少年という錯誤のあらわれを生き生きと活気づけるべく、おのれのからだに記憶の形成作用を呼び出すための道具なのです。そして、そうした実験の結果、土方のからだにおのずと「ものの形を真似る」事態を招くものとなっているようです。

 魔法瓶の内部に煌めく光にすがるようにして、またもや「暗さ」からの脱出を願っていると、「蝉男はいつの間にか少年骸骨になっている」。
「夏風から抜けた少年骸骨のまわりで、薄ぼんやりとした人の輪郭が、何だか物の生涯を見せ始めていた。」
 この少年骸骨は、「死んだ人の眼鏡のようなものに取り憑かれている」。それは、骸骨として生まれた、というようなすがたをしているのです。骸骨がからだの始まりで、そこに後から肉がついたのだ、そう考えられているわけです。後からつけた肉からは、肝腎なものを何も得ることがありません。だからこの少年骸骨には、「初心」のからだが重ねられているように思われます。それゆえ、少年骸骨の周りで「吹きゆれているのは」、純粋な自然なのです。というよりは、少年骸骨とは、死者も含めた少年の周囲の自然を純粋に映し出す、そのための道具なのです。少年を包む自然を映し出すのに、透明でありたいという土方の願いが骸骨に込められているわけです。とはいえ、その少年骸骨にもいつしか肝腎な肉がついてくるようです。その肉は、不透明な肉ではなく、光の肉といったモノになっているようです。光の肉をつけた「子供達は、もうお互いに見ることのできなくなった表情の起源に触れている」。その子供たちのまわりの光が特徴的です。「寝小便のしみの光」、「ぽっかりと忘れられた光」、「とろとろとした光」、「ひからびた光の杭」、それらはすべて、少年骸骨についた光の肉なのです。光の肉を骨につけて、「みんな行方不明になりたがっていた」、そんな子供達のすがたで終えられるこの場面は、ことに美しい。記憶に延々とすがっていたからだが壊れて、そこから純粋な鏡が出現するかのようにみえます。少年をプリズムのようなものに入れ換えようとする土方の実験は、ここでかなりのぼりつめているようです。

5) 秋の景
 冒頭、少年は小鯰となる。
「からだの裏表をゆったりと歩いている人の姿とこの小鯰の関係は、特に秋には取り押さえることが辛気臭い。この小鯰には耳がついていて、その耳はすぐに毀れてしまうのだ。」
こうして小鯰になることで土方は、少年のすがたとの関係にことさら神経を使う必要がなくなったようにみえます。この小鯰は、五感が人間のようでないからです。たとえば、「何も見ていないし、聞いてもいない」。もちろん、「何も考えていない」。土方は、そうした事態に立ち入ることができるのです。小鯰であることで、逆に「からだの裏」のような記憶作用に遠慮なく耳を傾けることができるというわけです。気がつくと、その小鯰に「影」がまとわりついているようです。
「いったい影は、何を容れたり何に触れたり会いたがったりして吹き揺れているのか。その影は何を耕しているつもりなのか。」
 この影とは、たちまち変動する、気分としての微細な渦のようなものでしょうか。それは息のように捉えどころがありません。結局、小鯰の正体は、「自分の口のなかの泡に浮かんで消えていく巡礼の姿」だった。小鯰を通して土方は、少年の息のようにからだを巡るモノの微かな気分を見定めようとしたのかもしれません。
 夏が去って、土方の「からだは籾殻のようになっていた」。そして、棺のようなものになって、「梨がわりに水っぽい風邪を土のなかから吸い上げている少年像がそこにあった」。この少年像は蹲ったまま、小さな棺と親しく関わっているようです。ところが土方の方は、「その湿った土からくる痛い注射のせいで、嘘だらけなのにもう嘘もつけなくなったからだになりかけて」いるようです。
 籾殻も棺も空っぽのからだを表していますが、要するに土方のからだは、少年像を介して、剥製のようなものになりたがっているようにみえます。その剥製が動くとそこに隙間ができて、「よそ者の風が挟まる」ことを土方は心配しています。
「やがて私は、土のなかの風をすっかり吸い上げる形で立ち上がったが、それは私を吹き抜けていく風とは別の形になっていた。」
 風は激しく吹き、ときに湿り、また陰気臭い。秋になって、土方をとり巻く風の質が変わったのでした。風、それは気圧配置によって起きる空気の移動です。皮膚が、その移動を外的な空気の圧力と感覚するわけです。皮膚に接触してはいるけれど、風は目には見えません。しかし、確かに皮膚を圧しているし、その圧力はさらに皮膚の内部に感覚を与えてもいるのです。風とは、そうした大きな運動を原因にもつものを、内部に感じることの現象とみなすことができます。風は、止まることなく地球表面上を移動し続けています。それゆえ、「風が気分を変える」という事態には、マクロな局面とミクロの局面が共に含まれていることになります。風は自己の変化だけでなく、世界の変化をも言い表しているのです。だからたとえば、「風は出鱈目に吹いていた」、「釣竿で夜風をたたいていた」、「夜風がからだを啜るように吹き倒れていた」、「お腹のあたりに夜風がすうっと入っていった」、「頭の中に陰気臭い風が痛いほど沁みていった」といった表現は、マクロな圧力を想定することで、からだに変動を起こそうとする試みでもあるように思われます。土方は風だけでなく、外から吹きつけられる人声にも、そうした風の役目をさせているようです。
 こうした風と奮闘するすがたを、「誤魔化すこともわすれてただ前を見たまま立っている私は、夜風の湿気を吸い取ってそこに現われた姿とも言えようか」、そう言い表しています。夏の生命力が支えていた、良い意味でも悪い意味でも明暗の強度が消えて、土方のからだは夜風に沁みてへたへたになっています。そこに風を吹かせて、どうやら土方は少年のすがたをようよう支えているようです。
「あんまり夜風にあたっていると、変な熱をまわりの暗がりから吸い取って、陰気臭いがおもしろいことを言う子供に育っていくものだ。秋場には得体の知れない熱に私はやられるのだった。」
 この熱は、少年に様々なものを幻想させるのですが、いつしか「まわりの闇に取って変わられて」しまいます。そして、ふたたび「暗がり」ですが、その「暗がり」のあらわれ方は、今までとはっきりと異なっています。
「その時蒲団の衿のあたりをすっと風が掠めて、急に寒い風の亡骸が蒲団のなかに入ってきて、私を抱いたような気がした。線香花火の残りがシュッと水につけられた程度の暗がりがその次にやってきた」のです。その一瞬の命のような「暗がり」のうちに、「蝋燭の火に焙られた蛾のようなものもじゅっと焼かれている」。この得体の知れない風の亡骸に抱えられて、続けて、吸物椀と蛾をめぐる、幻想的な話が語られることになります。
「吸い物椀に浮かんでいる蛾や、醤油瓶の間に張った蜘蛛の巣や、蚯蚓に吹きつけている乾いた秋風のせいで、まるで蚊帳のなかに入った私の顔を蚊帳の外側から見た時のように、その貌はもう私の顔ではなくなっているのだった。それに吸い物椀に浮かんでいる蛾はその椀にとても似合っていた。不思議な話だが、こうして蝋をたらした蛾のあたりから何か幼い尊い子供が現われてくるような感じを持っていたのである。蛾が持っている仄かな記憶のようなものを私が覗いたのか。椀のなかにはまだ明けきれぬ朝の霧が残っているようでもあり、浮いた蛾からその尊い子供に乳のようなものが流れているかにも眺められるのだった。」
 この話は、春先の泥の中に転がってきた赤子の頭の話と良く似ているけれども、その展開速度に大きな違いがみられるようです。最初に語られた蝋燭の火に焙られた蛾が、吸物椀に浮かぶ蛾とその鱗粉に関係づけられています。すると、そこにすばやく、蚊帳の中の少年の顔を「私の顔ではない」ように外から見る少年の目が介入することで、蛾と吸物椀の関係に異様な変動を起こさせています。ここに介入してくる蚊帳の中の光景は、単に記憶を呼び出している作業ではありません。おそらく土方は、少年の顔を記憶としてたどると同時に、「私の顔ではない」少年のそのすがたになっているはずなのです。次いで、その少年のすがたと顔の記憶との関係が、吸物椀とそこに浮かぶ蛾の関係にそのまま転移されています。つまり、少年のすがたと顔の二重性という抽象性が注目されて、蛾と吸物椀の関係に変動が起きたのです。その変動が、蛾に蝋をたらすというかたちを生み、そしてそのかたちから「何か幼い尊い子供」があらわれてくるという、強い気分を土方のからだに起こさせているのです。その変動の間には、おそらく蛾の鱗粉から蝋を経て、「乳」が介入しているのでしょう。この蛾と吸物椀の関係に隠されている気分はそれだけではありません。この後、蚊帳の出入りと吸物椀の光景との間の、絶妙な仕掛けが描かれています。先の吸物椀の光景は、この蚊帳の出入りと切り離せません。すなわち蚊帳が、というよりは蚊帳を出入りするその所作こそが、土方に視線を向けさせている一連の仕掛けの軸となっているのです。蚊帳は、外から中にいる人がよく見える場合には、中にいる人にとって中から外を見ると外が暗く不明に感じられ、その際の不安な表情がまるで別人のように見えることがあります。そのことの仕掛けがそのまま強い気分となって土方のからだにあらわれ、その変動を模写するようにして中継されているのです。すなわち、「蚊帳を出ていっては、椀を破ったり、腕をはずしたりして蚊帳に戻る」。こうした椀と交錯した蚊帳との格闘に、おそらく土方は、蚊帳の出入りの仕掛けがあらわすことになる強い気分を伴った、皮膚のようなものを重ねているにちがいありません。めくられ包み込むものが強い明滅を伴った皮膜となってあらわれる、そうした現象に関わることが、蚊帳の出入りを語る土方の身振りとしてあらわれているのです。ここで土方は、確かに踊っているようにみえます。
 夏から秋への、劇的なからだの転換が感じられます。からだの表から裏へ、裏であったものが表になる。そのことは足の裏、白い腹、湿った夜風、蚊帳といったものに示されています。ことに足の裏は、神経の末端が集中する大切な場所であり、外から隠されています。ふだんは外から見えませんが、しかしつねに大地に接し、光に無縁なために、それは白くなったままなのです。

 少年のからだの、その感覚の所在やその作業があやふやになる、そんな「冷えた空気のなかにからだが晒されてしまう」と、何でもいいからからだに食べさせてやりたくなると言います。菓子袋は、「子供心を何とも救いがたいもの」にするこうした事態を「明るさ」へと荒治療してくれるところがあって、少年は「菓子袋を生け捕りたくなるのだった」。逆に菓子袋が思い描けないと、「昏い模型少年」になってしまいます。菓子袋がないせいで、からだを偽の手足であるかのように疑ってしまうのです。しかし、眼の前に菓子袋が投げ出された場合には、慎重にならざるをえません。菓子袋に対しては、「つかず離れず」に鼻歌まじりで接することが肝要なのです。こうした菓子袋との距離を保つには工夫がいります。菓子袋が向こうから訴えてくることはまずありません。どちらかといえば、「菓子袋を懐に抱いている私は、白い毛のついた筆の先にぼやっと溜っている明かりのようなものを見つけたりしている」のでした。こんなふうに、菓子袋を抱えているのにも注意がいるようです。「菓子袋を抱いた私を追っかけるような私が、やがて一緒に走り出してくる」からです。そのとき、少年を餌食にしようといつも狙っている鳶があらわれるのですが、少年は「とんび」の歌を歌って、鳶に追われる気分を追い払っていました。菓子袋を抱いていれば、「もう何も心配するものもないからだ」になるけれど、菓子袋の中の菓子の食い方にも工夫がいります。その工夫は菓子袋の中身を長持ちさせようとする試みからでしたが、「その中身が何であったか、今ではさっぱりわからない」。こうした菓子袋とは、その中身のために、少年の飢えを「ぼやっと」活気づけてくれるもののようです。それがないと、少年はからだを捏造せざるをえなくなるのです。「食べる」ものが入った菓子袋を抱えて、活気づいた少年のからだの内部の明るさが、不思議と、餌食、すなわち「食べられる」感覚と親しく繋がっているようです。言い表しがたいものでいっぱいになっているこの菓子袋とは、少年のからだの明るさ、いわば生というもののアジール性を確かに保証してくれるようなものであることで、からだの「荒治療」に関わっているわけです。菓子袋とは、少年期の「肉体の闇」を示唆するものであり、それはあの掌に握った風呂敷と同じで、言い表し難い中身で膨れ上がっているのです。

「急に風に閉じられたような老婆は喘ぎ喘ぎ私に何かを知らせているようでもあった。吹きつけている風がぴたりと止むと、その小柄な人は、ごおうっという音をたてている竈のように見えてくる。その竈の音はあまりに私の耳もと近くで聞こえるせいか、聴覚がぬくもりに化けたような音になり、また、まるっきり聞こえない音に化けてしまうのだった。耳のなかに寝せたまま忘れていたものが、急にごおうっと音をたてたのかもしれない。」
 風の音が止んで、老婆が竈の「ごおうっという音」共にあらわれています。この音は音でありながら、何かしらよみがえるような空間としてあらわれてくる、そんなふうに聞こえてきます。そして、老婆はすがたというよりも、「今、あの老婆はどんな地点にたどりついているのか、あれはもう人間というものではなくなっている、飛ばない一つの軽さのようなものではないか」、そんな強度として示されています。この強度量が、「ごおうっという音」になっているようです。
「まるで私を迎えに来ているように再びごおうっという竈の音が聞こえてきた。その竈のおかげでか、私はたくさんのものを貰い過ぎているくらいだった。竈の前に立っているだけでもう何もかにもよくなるのだった。…竈のなかには特別の哀史が詰まっていたためだと思われる。そこから湧き上がるごおうっという音から私は沢山のものを授かったのだ。」
 竃は人間に火を与え、生のものを調理して「食べる」ことを授けてくれました。人間は煮られたものを「食べる」ことで、生(ナマ)の人間でなく、生(ナマ)のものが煮られた人間となります。だから竃には人間になることをめぐる、良きにつけ悪しきにつけ「食べる」歴史が詰まっていることになります。その竃は、老婆と親しいものなのです。老婆と竈が「ごおうっという音」で重ねられることによって、土方は解放されているようです。
「遠景の老婆は、そのとき、空気のなかでアアアアと叫んで溺れ死にするようによろめきながら、風に喰われた筏のようにすすすっと傾いていった」。そういう「ばあさん達は、いつも安っぽい虹をつかんでいる人達だった。」
 老婆は「なんだか、まわりの空気を撥ねつけるようなことをして、まぶしがって泳ぐような、踊っているような恰好も見せている」。この老婆は老婆のすがたをしていますが、そればかりではありません。「老婆はどこに隠れたのか。その隠れたところをどこまでもどこまでも追っかけていけば、赤子の頬についている涙腺のようなところに出て行きそうな気がする」。
 菓子袋と竈は同じものを土台にしてあらわれているようにみえますが、そうではありません。菓子袋という言い表し難いものの抽象性に関わり、そこから注目が竈へと転移することで、土台へとアプローチする際の土方のフォーカスの方が変動にさらされているのです。そこから「ごおっと」あらわれる老婆のすがたは、パフォーマンス冒頭の、老人が少年の「明るさ」を誘い出す秘密に繋がっているかにみえます。いや、この老婆は「明るさ」よりもさらに向こう側に繋がっているかにみえます。老婆が「踊っているような格好」をし、赤子の涙腺にたどりつかせるような予感を抱かせるように、それは「舞姫」の始原的空間がそこに顕現しようとする、そうしたすがたのようでもあります。
「この明かるい秋の空の下で一匹の蛔虫が天に昇っていった。家のなかでは大きな牡丹餅を喉のなかに沈めて、じっと座っている人もいた。」
 この景の終わり方には、確かな手応えを握りしめている土方の余裕が感じられます。