Saturday, May 19, 2007

土方巽研究 一<舞踏の欲望>

 三 舞踏のテクネー 

3. 舞踏符              

 多くの舞踏符が残されていますが、舞踏符について、もしくはその技法について、土方はほとんど語っていないようです。舞踏符を説明するような覚え書きさえ残されていません。その技法は、外に向けて説明する必要のない、舞踏の技術に関わる純粋に現場的なものとみなされていたようです。したがって、舞踏符というものがいつからあるものなのかさえはっきりしません。一説によれば、1967年の「形而情学」からとされています。そのとき土方がソロで踊った場面で、舞踏符の技法の萌芽となるようなプロセスがあったと考えられています。そうだとすれば、それは最初、土方が作舞する際に自身のからだに振りつけるための方法であったといえます。しかし、その後の舞踏符による技法の展開を見るかぎり、それは他者のからだに絵を描こうとする作業として、もっぱら土方が弟子たちに振りつけることで初めて実践的な技法として確立されていったことがわかります。したがって、始まりの形態は棚上げされて、基本的に他者のからだを振りつける技法として、舞踏符は展開されていったようです。そのことは同時に、振りつける者が振りつけられることでもあった、そう考えることができます。すなわち、舞踏符とは前にも述べたように、かたちだけでなく、質感や空間、さらには時間感覚をも指示する言葉が与えられることにより、神経全体を総動員して肉体を条件づけすることで為される肉体による「模写」、すなわち描写なのですが、そのとき当然、描写を条件づけする者と、条件づけられて描写する者とがあり、そうした二者の密接な関係があって初めて成り立つ技法として確立されたわけです。
 条件づけする者は、踊り手のからだを舞踏符の指示で条件づけることにより、踊り手の「想像の肉」をほどき、そこに裂け目を切り開いてみせる。すなわち、踊り手を「裸」にし、肉体の「交流状態」にさらしてみせるわけです。この「交流状態」にさらすような事態とは、技術的な側面から言えば、条件づけする者の側でからだに再現されてくる錯誤の形態に、当の踊り手のからだを関わらせてゆくことでもあると考えられます。いっぽう、踊り手の側は、からだが舞踏符による錯誤の形態に条件づけられると同時に、その肉体感覚は錯誤の形態に、それがあくまでも虚構であるとみなして関わり続けているわけです。
 この二者が関係する場には、見るからだと見られるからだがあることになりますが、その視線は実に複雑な様相にあると考えられます。見る方のからだ、すなわち条件づけする側のからだですが、そのからだは、私たちが観察するその内容は観察者自身を反映しているという意味で、条件づけられた形態を通して自身のからだに見られていることでもありますし、いっぽうの見られる方のからだ、すなわち踊り手のからだですが、そのからだは、錯誤の形態を操ることにおいて自身のからだを見ていることでもあるからです。両者が関係する場に立ちあらわれる、こうした視線を仲介してゆくのが、逆に舞踏符の機能となっている、そう言っていいかもしれません。ただし、このような見方は、あくまでも舞踏符の技法に関する一つの局面をとりだしているにすぎないのですが…。
 こうした複数の視線を仲介するような機能としてすがたをあらわす、その舞踏符の技法が成立する前提のようなものを考えてみると、それは私たちが空間に注目することの視線と、その視線が一転して目の前に立ちあらわれている時空間の変動に関わることになる、そうした事態についてみることになります。それはいわば、「描くものが描かれてしまう」といった事態に関わることなのです。
 たとえば、私たちの目の前に立ちあらわれている空間を考えてみると、それはたちまちのうちに変動する、そう言っていいでしょう。確かに、物質も静かに変動しているのですが、私たちの知覚が時空間をとらえており、そのとき感覚の変動が知られているからには、目の前の変動は物質の自然によるのではなく、主に私たちの意識という自然の働きによるものであることがわかります。雑多な記憶の束でかりそめに支えられているその時空間は、いっときとして同じではありえません。それはたとえば、「生きた現在は本質的に、外延において、強度において可変的なのである」(ジル・ドゥルーズ「襞」)、と表現されているとおりのものなのです。たとえば、しばしの間、不変の空間に止まろうとするだけでも、かえってそこには相当にはっきりと深く刻まれた神経の襞や、あるいはざっくりと切り開かれた亀裂のような意識に関わる必要があることを私たちは知らされるでしょう。目の前の時空は止まることなく変動するのです。それは、一瞬も休むことなく変動にさらされている。その変動のあり方はといえば、ふつうは、意識の自然という無数の偶然性のはたらきを着実に私たちのなかで決定してゆく、そうした決定に沿って反復するものを通じてあらわれている、そう考えられます。かりに変動へと着実に決定されることなく、自然のなすがままにただ放っておかれる状態があるとすれば、それは無数の力線に溢れかえる偶然性の海が休むことなく波打ち寄せるような状態にあると想定されることから、つねに変動にさらされているその時空は何からも手をつけられることなく、ただ朦朧と流動するままに放たれているばかりであるだろうと考えられます。過去の形成作用に制限されることなく、あたかも意識の粒子の性向がもたらすまま、つねに現在としてそれはそのようにあらわれているはずなのです。ただし、それを変動とはいわないでしょう。それは、生きた現在でさえないかもしれません。したがって、私たちが、時空が変動するそのことに意識的に関わろうとするためには、すなわち、生きた現在に関わろうとするためには、偶然性の無数の力線を意識的に働かせることによって、私たちのなかでそのつど着実に決定している何ものかをみる必要があるわけです。こうした時空の変動に意識的に関わってゆく際に、舞踏符の技法は、最初から偶然性の無数の力線に素手で関わろうとするのではなく、からだが模写をするというポジションから始めて、偶然性の無数の力線を追い込むようにしながら、曖昧なものを逆に精確に包囲していく、そのような手法を意図的に導入したのでした。したがって、それはけっして無制限な自由に耽ろうとする作業なのではなく、むしろ、「迷いそのものをポジションとして組み立てる建築に向う」(「遊びのレトリック」以下同じ)ような、構築の技法と言っていいようなものなのです。
 土方巽から受け継いだ舞踏符の数々をまとめた、和栗由紀夫制作「舞踏花伝」(1998)によれば、時空の変動に関わることの舞踏符群が、全部で七つの段階に分類されています。「舞踏花伝」によれば七つの「世界」とされていますが、ここで「段階」と言い換えるのは、変動を扱う神経のレベルといった意味での段階がそこにみられるからであり、一つの段階をからだで習熟することによって次の段階に関わることができる、というような意味あいを含んでいます。むろん、これらの段階は、それぞれが他の複数の段階へと全方向的に開かれているものでもあります。そして、すべての段階を習熟したならば、ひとつの段階から複数の異なった段階へ横断してゆくようにして(あくまでもそれは錯誤の形態としてですが)、様々に変動する時空に一瞬にして関わることができるようになるわけです。またさらに、複数の異なる段階にわる舞踏符に関わりつつ、それぞれに精妙な比率で差異を与えることで、そのとき微分的に働く神経メカニズムの一瞬の働きによって、より複雑に変動する時空に関わることができるようにもなるわけです。
 闇を扱おうとして、異形の日本語がからだに「迷い」の構成力をもたらそうとする、舞踏符のその七つの段階をみることにします。

 一 鳥とけだものの段階
 私たちのからだの「願望がその動作に直結している」もの、それが動物です。ですから、最初に動物のかたちや動き、その質感・量感などを模写することから始められます。動物のからだは静かでありながら、内に奔放さを秘めています。その動物のくっきりとしたかたちや流れるような動きの模写、その皮膚がもつ質感や量感の模写は、模写することによりからだに別にあらわれ、際立つものをきっかけとして、様々な変動へと、様々な別種の空間へと逆に導かれてゆくような、そうした時空の変動に関わる最初の鍵となっているようです。
 たとえば、ある動物を模写することによって、踊り手のからだに際立たせられた一部の質感が注目されて、その質感がからだ全体に拡げられてゆきます。また一部の量感が注目されて、それがからだに拡張されることにより、からだの質感の変化が注目され、その変化をからだ全体に充満させてゆきます。さらに質感や量感を伴ったかたちや動きが、そのままからだに幾重にも重層化させられた結果、最初のかたちが曖昧になることでかたちから解き放たれ方へと向かうと、そこから別のものが際立ってくる時間が注目されることになります。たとえば、動きを模写するその動きが抽象化され、そのまま細い神経線として注目されて、その線の運動を幾重にも増幅させることにより、そこに別の次元のものが際立ってくる時間が注目されます。またさらに、質感というものの抽象性が注目されると、それが逆に名づけようのないもののあらわれとなり、そのままからだにどうしようもない状態でさらされていく、といった変動に関わることになります。さらに、そのからだもしくは神経を追い込むようにして、かたちや運動、質感・量感を模写することの神経がからだに拡散してゆくようなその時間が、詳細にわたって注目されてゆきます。
 こうした注目する側の視線という契機、すなわち、模写という条件づけによって踊り手の肉体が囲い込まれてゆけばゆくほど、よりくっきりと踊り手の肉体空間に(を介して)際立ってくるものが見定められ、そしてその行方をそのつど決定してゆく条件づける側の視線の変動が、そこに際立ってくる「偶然を見送ったり、捕えたり」しながらその行方を追ってゆくことは、実際には、条件づける側の肉体で変動している時空を、条件づける側自身の肉体が追跡(尾行)していることにもなるわけです。それをはたから見れば、具体的な変動の航跡をその場で採集しようとして、条件づける側の視線が、さらなる変動の行方を、自身のからだを踊り手のからだに摺り寄せるようにして追っている、というような光景なのです。この二つのからだが擦り寄る光景を前提にして、以下話を進めてゆきます。
 動物の模写の中でも「鳥」に関わる神経は、かたちよりも神経への関わりが重要とされることによって、あるいはその質感・量感が最初から抽象化されていることによって、そのすがたを模写するというよりも、質感・量感の強度に関わる作業を示唆するものとなっています。たとえば、「鳩」や「光の青サギ」に関わる神経は、他の動物を模写する作業とは、その関わり方の次元が異なっているようです。というのは、かたちや動きや質感や量感といったものに関わるというよりは、「光」や「温度」といった、別種の神経の仕掛けに関わる段階へとすでに移っているからです。それはたとえば、「鳩」の「温度」に神経が関わると、すぐにそこに「子供」があらわれてくるような性格のものとされています。「光の青サギ」については、「光に奪われてゆく神経」と形容されている事態、すなわち皮膚感覚が光を受容する神経によって拡散し、霧散することにより、結果的に中断することでそこにあらわれる神経があり、その名づけようのない神経に関わるままに放置されると、そこに知らず知らずのうちにひとりの「少女」が出現してくるのです。すなわち、「身体の運びを拘束しそうな連続性を、絶えず中断されている状態のままに放置すれば、それ自体すでに動いている動きの主体に変貌する」のです。

 二 花の段階
 次に花ですが、幾種類もの花がありますが、これらの花はどれも最初からはっきりとしたかたちをとっていません。花は、花粉、匂い、薄さ、光、温度といったもので成り立っているのです。あるいは、外部からの光、空気、風などによってようよう成り立っているものや、なかには眠りでできている花もあります。つまりそれらの花は、最初から微粒子のようなもので支えられている花なのであり、拡散や霧散、蒸発や揮発といった変動をすでに受け入れている状態にある花なのです。花という名のものをただ媒介にしているだけで、その状態に関わることであやうくすがたをとっているような、朦朧として微粒子化されたものに関わる神経が、踊り手の肉体空間に際立ってくるのです。この微粒子化に関わる神経状態にあれば、次の段階の、物質化する神経メカニズムの方へとすぐにでも移っていけるのでしょう。なかでも「すみれ」と「花粉」は、花のなかでも特異な位置を占めているように思います。「すみれ」は最初からかたちも何もなく、すでに朦朧としたものになっています。それはたやすく、あるいは必然的に、幽霊のような脆いものの方へと変動してゆきます。いっぽう、「花粉」は肉体空間というよりも、からだの内外部の空間全体へと拡がる微粒子を想定して展開されるものであり、その微粒子に色も匂いも自在につけられるといった微粒子を制御する神経にまでいたり、様々な質感や量感を空間全体に与えることのできるような、肉体空間を介した時空の変動を用意する確かな素材となっているようです。たとえば、その微粒子の密度のわずかな濃淡によって、様々なものの影が空間にふっとあらわれては消えるのです。
「脆さは適合性の妖精である」と看破されているように、花の段階はあらゆるものを包むと同時にまた包まれる状態として示されていますが、それは、そこに変動として立ちあらわれてくる空間が初めから危ういものとしてあるからにほかならない、ということの最初の確信を示しているようです。「脆さは絶えず変動する」、その危ういもののふっとした変動だけで、その場に少女や子供の気配があらわれては消えるのです。

 三 壁の段階
 次に、物質の変化する時間に関わってゆきます。さらに、その変化するメカニズムに神経が精確に関わろうとする段階へと移ってゆきます。動物や花に関わるのとは異なり、物質を支えている材質に関わることは、物理的な状態、すなわち分子運動というメカニズムそのものに関わることだといえるでしょう。こうした物理的メカニズムに関わる際には、ひとつのメカニズムから次第にメカニズムが重層されてゆくといった、段階的な習熟が試みられています。
 まず、飴状のものが冷えて固まってゆくような、一方向的な変化過程のメカニズムにからだが関わることから始まり、次に密度の濃い様々な材質、たとえば石とか土塊とか陶器やガラスといった、つまり、花のように内部と外部との区分けが放棄されているのではないもののことですが、それら異なる材質が踊り手の肉体空間に増幅されてゆくメカニズムの、それぞれの差異に関わってゆきます。また、抽象線が重層された状態から別のものが立ちあらわれ、際立ってくるメカニズムについては、動物の模写の際には空間の変動を導くものとされたその過程が、ここでは神経のメカニズムそのものに関わってゆくことで、からだのより見知らぬ層へと喰い入ってゆこうとするかのようです。次いで、物質が崩れてゆく時間のメカニズムに関わり、するとそれがそのまま、肉体のフォルムが逆に分子状態を支えているメカニズムに関わる段階へと展開されてゆきます。物質の凝固と崩壊、さらに変異のメカニズムをからだが通過すると、次にはたとえば、重さの中の軽さ、軽さの中の重さといった正反対の量感・質感を測るといった複合的な神経や、ひとつの材質が二重にぶれることにより、そのメカニズムにからだが関わる神経の襞を複次元的に増幅させてゆくといった特異な神経に関わってゆくことになります。ここでは、複数のメカニズムにそれぞれ比率を与えながら、一瞬のからだの動きのなかでその複数の異なる、そして多様な神経に関わる事態が展開されていることになります。そしてさらに、ある素材から人間を立ちあらわせ、さらにその人間のかたちからある素材へと戻ってゆき、その途中に必ず幽霊のようなものを通過するというメカニズムにいたっては、メカニズムそのものさえをも朦朧化させてしまうような事態に肉体を関わらせてゆくかのようです。最後に、様々な材質が変動する時空として順次出現しては消えてゆく、いわばメカニズム自体の変動と出没のようなものに関わったり、瞬時にあらわれて消える、出没のすばやいメカニズムに関わったりします。
 材質の変化という物理的なメカニズムに関わることは、まずからだを徹底的にモノとしてあつかう神経に関わることになります。さらに物理的なメカニズムをからだが追うのではなく、からだとメカニズムを一致させるようにして、メカニズムそのものがからだを通過するような事態が求められています。そうした過程に、「溢れ出したり抜け出ていったりする瞬間に、充足し闖入される」事態があるわけですが、その充足や闖入によって、よりくっきりとした軌跡をとったメカニズムがからだの見知らぬ層に届けられてゆくといった、層横断的な技法が追及されているように思われます。そしてそうした過程のうちに、ある変動に関わっていたら別の変動になっていた、ということの仕掛けがはっきりととらまえられてくるようです。あたかも「抜け出ていった自分は、当然、いまある自分に変容されている」、といった具合にです。
 ここにいたって模写は、万物の模写にいたったわけです。

 四 焼け落ちた橋の段階
 次に、炭になって焼け落ちる寸前の人のからだが想定されるわけですが、こうした崩壊寸前にあるからだを支えるというような事態は、特に重要な意味をもっていると思います。それは、時空間という偶然性の無数の力線に溢れているからだが、みずからその変動を必然的にしてゆく可能性をはらんでいるような、いわば舞踏表現の土台となるべく神経状態が、この崩壊寸前にあるからだに関わることにおいて試されようとしているからです。「そうなったと考えられることが、身体から眺められる状態に支配されて動いている」、すなわち、この神経状態がからだの隅々にまで行き渡らせられると、そのとき偶然性の海の波打ち際でオートマティックな決定が着実になされているという、変動を必然的にしてゆくような神経がそこに立ちあらわれ、際立ってくる、そうした時空間表現の土台となるようなからだが見極められようとしているわけです。したがって、この「灰柱」としてのからだは、ある仮想されたからだとして基礎づけられるべく、確かな目的をもってあらわれてきたもののように思われます。以後、このからだはそのイメージを変えながら、何度でもあらわれてくることになります。

 五 解剖図鑑の段階
 次に、物質世界から人間世界に帰還するのですが、それは人間であることのからだを崩壊させてゆくといった、解体の極限の神経に関わってゆくものです。たとえば、濡れて、重く、不定形になって、崩れてゆくからだに関わってゆきます。動物の質感や量感といった表層の感覚に比べて、ここでは同じ濡れたものや重さに関わっても、その関わり方はからだの内層へ、すなわち、前の段階で習熟した物質に関わる神経のメカニズムを駆使しながら、さらにからだの見知らぬ層へと、その神経を喰い入らせてゆくかのようです。
 まず、目前のからだが腐り、崩れ、人間としての根拠さえも失ってしまう、といった神経生理に関わってゆきます。膿のようにどうしようもなくからだの内部から流れ出す体液や、死を宿した痙攣にさらされたからだに、神経はずぶずぶと喰い入られてゆきます。肉はどろどろ溶け、耳だれ、脳だれ、顔はとろけ、ひきつり、からだの部位はことごとく崩れ出し、どうしようもなく膿にただれ、異臭を発し、重い痛みに苛まれ、このからだはもはやかたちをなさず、もうどうしてよいかわからないといった時間を体験する、そんな神経生理に関わってゆきます。さらに肉の飛沫、肉の増殖、肉が伸び、肉が縮み、最終的には人間の肉の無名性を体験する、といった神経生理にまで関わってゆきます。からだのあちこちに耳が生え、自身の耳という肉の迷宮に小さくなった自分が迷い込むというような、自分というものの入れ子状態を体験する特異な神経生理もあります。
 かくも凄惨な、肉体が解体される事態に関わる体験には、しかし、あらゆる感情が排除されているのです。恐怖の跡すらそこにはありません。肉体が変動する無残なすがたのその心象のうちにあらわれるものにではなく、からだという神経の束なすものの変動のうちに、自己の起源であるようなものが直接そこに立ちあらわれ、際立ってくる、そうした懐胎現象をなぞらされてゆく作業であるようにそれは思われます。「汗だくの、痙攣的な、順序のない順序を探り出し、今何をしていたかを知らない状態に自分を引き止めようとする」。ここに立ちあらわれるものの詳細を扱う作業は、次の段階にいたって、堰が切られたようにして展開されることになります。

 六 神経病棟の段階
 さらに神経は重奏し、拡散し、横断し、亀裂し、からだの見知らぬ層へと喰い入ってゆきます。そして、それぞれの神経が複雑に絡み合い、重層的になった無数のその神経に、一瞬にして関わる作業が加速されてゆきます。
 様々な神経が一瞬の動きのうちに出現したり、逆に多数の視線にからだが解体されて、空間にはりつけになったりします。神経病患者のフォルムがもつ不可解な時間に関わり、自分が何をしているかわからないうちにいろいろなものが出現したりします。森の中へ分け入ってその空間を全身で知覚するや、そのままからだをどこかに置き忘れてしまった肉体空間へと没入します。フォルムの抽象線を細くしたり太くしたり、そのフォルムが滲んで、ぶれ、そして流れ出すプロセスに関わったり、また逆にびっしりと時間と空間とが積もったフォルムに関わってゆきます。細い神経の線を増やしていくことで、次第に薄くなってゆくからだに関わったり、また逆に神経によって支えられているフォルムに関わってゆきます。たどった神経がからだの中から抜けてゆかずに、そのままからだの中に蓄積されていったり、神経のみによって動かされている神経のみによる変動があったりします。私というすがたの鏡にもうひとりの私のすがたがぶれて映っていたり、からだから指一本が出ていって、それに誘われて行ったりもします。からだを空間の中に消えてゆかないようにしてどこまで薄くできるかに関わったり、またからだに自分と異なる人物が混在しているすがたに関わってゆきます。ある現象の飽和状態が別のもうひとりの人物を生み出す素地となる神経に関わったり、メスカリンによる神経異変が膿に溶けてゆくような事態に関わってゆきます。
 こうした神経にもし真剣に関わるならば、そこにはきっと発狂寸前の状態があるでしょう。しかし、この発狂寸前状態のからだはみずからぞっとするほど冷めていて、ただからだの内部を無数に走っている神経のありかを精確に探っているだけなのです。神経の無数の蛇が、今どこをどのように走り、また組み合わせられているかを捉えることのできるような、無数のセンサーが網目のように張りめぐらされたからだに関わることを主眼としているからです。「この憑きものの状態を抽出して動機のある動きに対立させることは、むしろ遅れてやってきた残存する動きの組み合わせから、活動の側面を拾う羽目にもなる」。そのとき、一つ一つの視線は二つの声をもち、視線の中であたかも論争が生じているようです。からだの内層に喰い入らせた様々な視線と、そこに突如として風化のごとくたちあらわれてくる視線とが同時に働いているようなことが起こってくるからです。この風化のごとくたちあらわれた視線は、からだに抱きかかえられた亡霊のようなものとして、惚然とあらわれているようです。

 七 深淵の段階 
 そして、次元はいっきに変容し、からだの内層に関わることの神経は霧散し、乾き、軽くなり、光の衣装に奪われて、闇に充溢してゆくような心地よさ、あるいは懐かしさの感覚の方へと向かってゆきます。
 けむり状をした何ものかに、神経が奪われてゆくことの心地よさに関わります。剥製状態がそのまま飛翔してゆくことの、かつての時間に関わる心地よさが立ちあらわれてきます。無数の視線によって微粒子にまで解体され、そこに生まれてくる形象に関わることの懐かしさがあります。それから行方との対話、空間との対話、幽霊との対話があります。いたるところに幽霊がいます。幽霊とは、始源の空間として凄まじい速度で変貌しているもののことのように感じられます。その幽霊の時間の精確さを懐かしがったりします。浮世絵の幽霊が風にほどけて、ぼおっと大きな母になる懐かしさ、その着物の中身が幽霊なのです。天使。糸を吐く人の子供のような遊び。自分の口から吐いた糸が絡み合いながらフォルムをかたちづくっています。糸の濃いところ薄いところ、蜘蛛の巣の集合体、手は足に、頭は尻にとって変わり、毛穴から無数の糸が出て、絡み合っていることの心地よさ、懐かしさが拡がってゆきます。顔が蛍になることの心地よさがあります。こうした事態に、いきなりすぽっと入ってしまっているのです。落ちることは上昇することになり、めまい、見ることは奪われることになるのです。神経の集中と拡散が同時に起こっている心地よさ、懐かしさがあり、はっと気がついたら、そこにひとつの微笑が残されていた、というわけです。この見慣れぬもの、微笑として不意にあらわれたそれは、懐かしさという明滅、肉体が何ものかへとやっと漂着する、その感覚の根拠となるものと言っていいでしょうか。「人形が無意識的に知らせて寄こす変容への転換を軸として考えてゆくと、直線と屈折がもたらす深淵に誘い込まれる。凝固した叫びは、直線と屈折によって浮遊するものを切り捨てた天然の錬磨術の包囲によって、結晶となって発見される」。

「舞踏花伝」の平面地図にはありませんが、これら七つの段階を層として、つまり階梯図のようなものとしてとらえると、最後に「光」の段階を別につけ加えておかなければならないと思います。その光は、通常の、いわば闇に対する光ではありません。それはあくまでも、闇を際立たせる光なのです。
 いろいろな光が集まってきて、光の来る方向、幅、強弱などを感知することに関わってゆきます。額に集まる光、その光が上昇してゆくと、上から降りそそぐ光、地から吸い上げられて顔に充満する光、胸の光、凍った光、内側から光るものに光があたっている状態、見えない光、などがあります。これらの光に奪われた神経は、その光を感知する仕方次第で、様々な変動のあらわれにおのおのの微笑、懐かしさ、その時間を加味するようなもののように思われます。
 そして、もう一つ最後に付け加えておけば、複合的なものは単純なものと合致しているという意味で、舞踏表現の基本であるところの「歩行」があります。
 以上が、肉体が肉体で錯誤に関わること、すなわち「宇宙の迷走にあやかる」ことの一体系です。

 さて私たちは、舞踏符を定型的なものとして採り出すのではなく、変動に関わる機能という視点でみてきました。その視点に沿うかたちで、ここまで舞踏符が指示する具体的な内容を述べてきたわけですが、その際に、舞踏符が指示する内容をひとつの事例として用いたのであり、それは、舞踏符が指示する内容、たとえば具体的な指示言語や、それに伴う身振りとかたち等を、ここでとりあげることにさしたる意味はないと考えるからです。というのは、舞踏符が指示するその内容は、舞踏符が、踊り手のからだに記し記された事態というものに関わろうとする際に、からだで見当づけられる図式のようなものとして与えられている、そうとしかこの場で示すことができないからです。言うまでもなく、舞踏符は、からだに条件づけられることで初めて経験としての意味をからだに懐胎させるものです。ここでは、その懐胎されるものがあくまでも未生にして変動するものであることを示そうとしたつもりです。その経験の内容が未生であることによって、抽象化、重層化、複合化、加速化、逸脱化などといった、多様に変動する事態をもたらすことのできる神経操作を、すなわち「騙されやすい注意力」を、からだみずからが扱うことが可能となるのです。したがって、当然ながら、ここには舞踏の表現として具体的に示すことができるものは何もありません。むろん、舞踏符が指示するものだけで、舞踏するすがたを示すことなどできないでしょう。わざわざ舞踏符が指示する内容をここまで述べてきたのは、舞踏符の機能的な局面をふまえて、舞踏符について三つの視点から考えたことをざっと素描してみようと思うからです。

 変動性について
 変動とは、抽象化、重層化、複合化、加速化、逸脱化といった神経操作によって、目前の事態が多様に変化することをいいます。このとき変動が目前にされるのは、踊り手の肉体の時空に伴うものにおいてですが、変動そのものは、すでに述べたようにそれは、振りつける者と踊り手との二重の視線が介在する場において決定されています。このとき、振りつける者と踊り手双方が、共に「見る者は見られる」ことの二重の視線を介在させていることから、それは複合的な視線が介在する場だといえます。土方は振り付けに際して、踊り手に「からだを貸してやる」という言い方をして、この複合的な視線が介在する場の、その身体経験的な性格を強調しています。この変動はしたがって、両者の身体経験が触れるようにしてもたらされているという意味で、共同変動性という性格をもっているのです。もちろん、一般的に言って変動とは、単独に起きる現象ではありません。それは、あくまでも外部と触れていることで起きる現象にほかなりません。したがって、舞踏符についてもそのことを強調しておきたいと思います。今見てきたように、舞踏符の指示によるからだのあらわれは、単独的なものではありえないのです。それは、外部である何ものかに触れることでもたらされているあらわれなのです。舞踏符は、外部の身体経験を介して独自に生まれるという共同変動的な現象をもたらす手法として用いられており、舞踏符による条件づけだけを採り出して、その条件づけされたかたちが個人のからだを介して受け継がれていくといった性格のものではないのです。
 この共同変動的な現象のさなかで、肉体の時空があらわすその変動を、踊り手が肉体であらわしてみせる際のその原理に則って言えば、次のようになるでしょう。踊り手がまず舞踏符の指示するかたちや動きにとどまろうとすると、そのとどまろうとすることのうちにおのずと逸脱するものがあり、その逸脱が外部の視線を介してさらなるかたちや動きへと収束させようとする、そうした一連のすがたがあり、その一連の変動(踊り)のうちにあらわれているものがあると。その一連の変動のいっぽうで、それに対して、その際に踊り手が肉体を操作する局面はといえば、ひとつの虚構に関わるや否やまた別の虚構に関わり、間髪入れずにまた次の虚構に関わるという具合に、つねに変動にさらされる肉体の現在を支えるようにして、様々な神経を呼び出している、といった事態となっているのがわかります。このとき、虚構に関わり続けるその神経の連続は、自己を支えるようなものではありません。そのとき舞踏符が指示する内容そのものは、踊り手の表現の原理に深く関わってゆくというよりも、むしろ踊り手の自己を不明にするかのように様々な神経を呼び出すといった、操作的な機能に関わっているかにみえます。舞踏符による指示は、からだをかたちにとどまらせながらも絶えまなく逸脱を誘うその神経の仕掛けに関わるのであり、そのとき変動にさらされる事物としてのからだがあらわしてみせるものに直接に関わるわけではないからです。このとき、踊り手のからだのあらわれに直接に関わるものは、どのような視線でもありません。それはおそらく、踊り手の「生」のうちにあるものなのでしょう。
 土方は、この踊り手の「生」に照準を定めることによって、舞踏符の技法において、外部から触れられる身体経験が必ずしも振りつける者でなければならないのではなく、それは、最終的にはおのれのからだに立ち上がる死者でかまわないとしている、と思います。かりにそうであれば、このとき死者は、踊り手のからだと摺り合うようにして、どのように関係しているのでしょうか。こうした問いにはとうてい満足な答えを用意することはできませんが、土方が考えたであろうことを、少なくとも見当づけることはできるように思います。
 土方は、おのれのからだから死者を分離しようとしています。「私は、私の体のなかにひとりの姉を住まわせている」と語られているように、死者としての姉のからだを、おのれの内に分離しようとしているのです。そのとき、死者が土方のからだに擦り寄るようにして、そのからだを振りつけようとするその妖しい事態は、次のような展開を示していると思われます。踊り手が作品をつくるべく、その肉体をして、肉体認識(視線)に向かわせようと熱中するそのとき、おのれの肉体の闇が未然と際立たせられることになりますが、このとき死者の関与が、肉体の闇がそれとは質の異なるものとして連れて来る暗い背景に注目させることになるのです。その注目する視線のうちに、暗い背景はいよいよ際立たせられることになるわけですが、暗さが際立たせられることで、死者が踊り手のからだの内でおのずと、誰でもないようにして変動を示すと、踊り手はいっそう暗い背景にさらされ、自己は不明となり、その自明でない自己が、肉体という事物にさらされることになります。そして、踊り手のからだが、そこに際立つ暗さを包み込むようにして次々と変動を示すと、死者もまたさらなる変動を、誰のものでもない事物のようにして、すなわち「生」として示すことになるのです。肉体の闇という誰でのものでもない視線を介した、暗い背景をめぐるこのような共同変動的な関係が、土方が言う「喰べ合う」ことの関係であり、その関係は、具体的な踊りの局面においては、死者を介することによって、死者をめぐる変動を事物として踊り手のからだに立ちあらわせ、際立たせる、そうした働きをすることになるのです。
 土方の場合、死者は姉です。姉は、土方の「肉体史」という暗い背景に深く関わっているはずなのです。この姉が、土方のからだにどんなふうに注目させ、そしてどんな変動を示しているのかは、これだけでは明らかになりません。明らかなのは、その姉が、暗い背景を介して土方の自己を不明にするような様々な神経を呼び出し、土方の肉体の闇をとどまることなく逸脱へと誘い出そうとするそのことです。自己が不明にいたるほど、「生」が直接に表現に関わってくるその事態とは、こうした逸脱の作用と表裏一体にしてあるのではないでしょうか。

 抽象性について
 舞踏符に条件づけられた肉体が変動に関わる際に、関わっている神経の重層化、複合化、加速化、逸脱化といった操作等を、まとめて神経の抽象化と言うことができます。これらの抽象化を操作することのうちに、何かしらの変動を誘発させる要素がある、そう考えられます。この抽象化の操作は、具体的には、踊り手の肉体に幻想性を指示することに由来しています。それはたとえば、動植物と人との合体であり、複数の眼や手が増殖したり、移動したり、また耳の中にからだを住まわせるといったような諸々の指示なのです。こうした幻想性にからだを関わらせることで、結果的に抽象化の操作が可能となるわけです。ところで、この幻想性を帯びたすがたかたちが、そのまま舞台上にのせられる場合もあります。たとえば「鯨線上の奥方」の最終場面で、踊り手が、あたかもヒエロニムス・ボッスの絵画に見られるような体躯のない幼児のすがたとなって、舞台上にあらわれているのです。そればかりではありません。幻想性において、舞踏手による奇異な形相で満たされた白桃房の舞台は、「皇帝ネロの金色の館」と形容される通りのものでありました。
 幻想性を帯びたすがたかたちが、すぐさま何かしらの抽象性を帯びるものであることは、絵画や彫刻の表現上の原理として知られています。たとえば、バルトルシャイテスの「幻想の中世」は、西洋のゴシック世界の図像が古代世界や東方の図像に触発されて、キリスト教の図像世界にひときわ裂け目をつくりだす光景を描いていますが、そのとき図像の幻想性と抽象性が表裏一体であることを次のように述べています。「生き物のかたちを正規の場所からずらしてみせたり、いくつも反復してみせたり、異様なほどに部分拡大してみせたり、いくつかを混ぜこぜにしてみせたりする。すると超自然的な力が湧き出てくる」。バルトルシャイテスは、無頭人や多頭人、頭脚人や頭腹人といった図像に次いで、「貝中獣」、すなわち、渦巻貝から動物がすがたをあらわす表現に注目しています。さらにまた、渦から生まれる人間のすがたや、からだに描かれた渦、「人頭唐草(渦巻模様)」といったものにも注目しています。この渦巻の次元と人のすがたとの一体化は「超自然的な力」とは言えないまでも、からだが何であるかを着実に知らせている表現のような気がします。こうした身体感覚に触れているかのようなゴシックの幻想的な図像は、しかしけっしてゴシックの主題ではなく、「欄外の奇想が出現し」と言われているように、おそらく身体感覚に直接触れているがゆえに、逆に装飾として余白のスペースに表されることになったのではないかと考えられます。つまり、こうした図像は装飾であるとはいえ、私たちの視覚に随伴する、おのれを想像力に乗り移らせることのできるような力に逆に訴えようとしているわけです。事態を比喩的に言えば次のようになるでしょう。キリスト教という主題的身体が確固たるものとしてあるゆえに、超自然的な力、すなわち異端的な抽象性を抱えた身体は、主題である身体の余白を借りながら、幻想的図像として表されているのです。このとき、この幻想的図像は、身体経験に直に触れるものでありながらそのまま抽象性を示すというわけではなく、また抽象性をシンボルとしてとどめているというのでもなく、逆に抽象性がすぐさまイメージに交換されてしまうような場となっているからこそ、余白にではあるが、正々堂々とその表現の場が与えられたのだ、そう考えられるわけです。
 舞踏符による幻想性を帯びたすがたは、けっして舞踏の主題ではありません。それはあくまでも装飾であって、そこにあらわれる図像性は、むしろ舞台空間というキャンバスに生き生きとした想像力をもたらすような形象としてもたらされているだけだと思われます。そのいっぽうで、舞踏符に条件づけられた身体が表す図像性と、図像の表現する身体性との間には、確かに通底するものがあるように思われます。土方は、舞踏符を採集するに際してもっぱら絵画を参照していますが、それは絵画に必然的に跡づけられている抽象性を交換する場といったものに、逆に身体を関わらせようとする、そうした意図が働いているからなのでしょうか。
 舞踏符の採集のために絵画を参照するにあたって、土方は印象派の絵画を使っていません。印象派の絵画は、むしろ舞台を構成する際に使われている、と推測されます。たとえば、セザンヌの人工的に構成された鮮やかな色彩画を、土方は、舞踏符に条件づけられた個々のからだを舞台構成する際に、はっきりと意識していたと思われます。いっぽう、舞踏符を採集するにあたっては、土方は主に幻想風絵画を参照しています。必ずしも幻想絵画とは言えませんが、ここでは幻想的にしてかつ抽象的な力をはらむ、フランシス・ベーコンの絵画を例にとって、抽象性の交換の場といったものについて考えてみようと思います。
 土方は、ベーコンの画の中から舞踏符を採集しています。舞踏符として、土方がベーコンの画からとり出してきた指示は次のようなものです。「欲望のオブジェ、そういう技術を容れておく器が肉体。肉体の突出。危ういものをかろうじて形で支えている。魂の持つ方向性と重量感の関係。体の内部の軌跡を辿ることの重要性。」(「土方巽の舞踏」所収「舞踏符」) 次に、以上のような指示に神経を関わらせたうえで、具体的なからだの動きの指示が与えられてゆきます。たとえば「脳梅法王」。これは、ベーコンの法王画を模写する動きです。その動きは表情の模写に始まって、それが「花」に霧散し、肉がくずれてゆくイメージへと続いてゆきますが、すぐさま、犬の肉塊や狂人という別種の時空へと変動しています。
 いっぽう、ベーコンはどのように絵を描いているでしょうか。
「描きながら、絵がどうなっていくのかわかっていないことが、実はよくあります。そのほうが、自分で意図したよりずっといいものになるのです。これを偶然と言っていいのでしょうか。たぶん、偶然ではないとも言えるでしょう。この過程で、偶然に生じたものからどれを使おうか選んでいるわけですから。つまり、偶然のバイタリティーをいかしながら連続性を保とうとしているのです。」
 あるいはまた、
「深層が必然性を保ったまま表面化するということです。脳の働きに干渉されることなく、必然的なイメージがストレートに湧いてくるのです。いわゆる無意識から、無意識という泡に包まれたまま、つまり新鮮さを保ったまま、まっすぐ出てくるという感じです。」(共に「肉への慈悲」)
 ベーコンが絵を描く際に、思考によるというよりも、描きながらおのずとあらわになる抽象力を保とうとすることで絵を描いているのがよくわかります。ここでベーコン自身の言葉で語られているリアリティーの感覚が、具体的には、彼の人物画によって表されているのがわかります。人のかたちからはみ出るようにしてあらわれているものに、ベーコンは強烈なリアリティーの感覚を抱いていました。彼がそれを絵にするとき、たとえば、レントゲン写真や霊の物質化写真などという、人の肉を透かしてあらわれる現象を参照しながら、人物のかたちを透かしたり、肉からはみ出るような表現形態として描き出すのです。ベーコンは、写真がおのれに強いる配置されたイメージに抗いながら、そうするのです。
 ベーコンの絵を媒介にして、何がなされているでしょうか。土方は、ベーコンのリアリティーの感覚を、ベーコンの画に見出そうとしています。そのことは、土方が採り出した舞踏符の言葉によって知れるでしょう。そのリアリティーの感覚を媒介にしてベーコンの画を舞踏符として用いるとき、実は二つの局面が働いています。一つは、ベーコンのリアリティーの感覚を言葉で採り出す心的な局面、もう一つは、ベーコンの画を模写するという肉体の局面です。肉体の局面とは神経と筋肉とが働く局面ですから、それを事物の局面と言ってもいいでしょう。言葉の局面は明晰であり、また絶えず反復することが可能であるのに比べて、肉体の局面は薄暗く、それは時空にとどまることに寸時の間しか耐えられません。しかし、ベーコンも示唆しているように、明晰なものはつねに薄暗いものに依存しながら、その抽象性を外に表明することができるのです。だから、この二つの局面は一緒のものではないけれど、一つのものとしてつねに連れ合っているものなのです。言葉の局面がからだを解き、からだが明晰にめくられるよう指示するいっぽうで、肉体の局面はつねにそれとは非等質であるものに操作されながら、からだを一つのものとしてあらわそうとして、そこにあらわれるものを薄暗く包み込もうとします。舞踏符が指示する内容によって、「かりそめの皮膚」が明滅することの理由がここにあるようです。と同時に、肉体認識を肉体が扱う表現においては、抽象性というある種のリアリティーがすぐさまおのれを包み込むかたちをそこに用意している、つまり、抽象性はそういう仕方で一瞬あらわれようとする、そのことがわかるのです。

 二重性について
 ここまで、舞踏符の機能が関わる変動的な局面をみてきましたが、しかし舞踏符とはまず、肉体に具体的なかたちを帯びさせるもの、かたちに止まらせようとするものでもあります。そして、肉体が帯びるこのかたちにおいてすぐさま「かたち」と「あらわれ」とが見分けられている、そうした瞬時の時間があるわけです。たとえば「壁」という舞踏符がありますが、「壁」が指示するものに関わる、もしくは関わらせることで、「壁」を表現しよう、あるいは「壁」を見ようとするわけではありません。「壁」が指示するものに神経が関わることで、踊り手の肉体にあらわれ、見えてくる志向性といったようなものを、そのかたちを通じて際立たせようとするのです。こうしたことは、「壁の段階」において、まず物質の質・量感といったものに関わり、次いで物質のメカニズムに関わることへ、さらにメカニズムそのものに関わることへと、そこに見出されている「あらわれ」に誘発されて、ますます見知らぬ層へと向かってゆく変動が見出されていることからもそうと知れます。この志向性とは、共同変動的な現象において、偶然性の海の波打ち際に見出されてくるような必然的な「あらわれ」のことである、そう言っていいかもしれません。この志向性は、それがあらわれてくる「かたち」を原因としているけれど、原因とは別のものとしてあらわれてくるのです。それにもかかわらず「かたち」からあらわれてくることから、「かたち」とその「あらわれ」とは一体化してもいるのです。だからこそ、「かたち」をまずからだに与えることの舞踏符の技法が成り立つわけです。しかし、あくまでも「かたち」と「あらわれ」とは一体化していながら、それらは異なったものなのです。それぞれが現象する次元は異なり、舞踏符は「かたち」の次元に関わりながら、「あらわれ」という見知らぬ次元を際立たせようとする機能として働くのです。「かたち」と共にそこに見慣れぬものとして立ちあらわれる「あらわれ」の次元、その両者の必然的な連なりといったもの、すなわち「命の傾き」が、舞踏としての踊りを成り立たせる時間、あるいは強度のようなものとして示されようとする、そう考えられるわけです。その時間あるいは強度こそが、肉にまぎれる魂の肉化と言っていいような、肉にあらわれるものとしてむすばれ、そして肉に与えられることの、いわば舞踏の富と知られるものなのでしょう。
 ジル・ドゥルーズは「襞」の中で、生に潜む襞、その二重性としてあらわれているものについて、次のように語っています。「すべての動物は二重であるが、幼虫の中に折り畳まれ、やがて折り目を広げる蝶のように、非等質、異形性において二重なのである」。舞踏符とは、「かたち」に折り畳まれているものが見慣れぬ「あらわれ」としてその折り目を広げるかのように、生が表現する、こうした非等質で異形性において二重なものに関わろうとするもののように思われます。一匹の幼虫は、蝶という見慣れぬものをその肉にすでに抱えています。遺伝子型が、その表現型を志向しているのです。非等質と異形性を内包すると知られる、こうした生が展開するその二重性からすれば、舞踏の表現における「かたち」から「あらわれ」への二重性の連なりとは、逆に「あらわれ」がつねに「かたち」を志向するその時間である、そう考えられなくもありません。「あらわれ」の抽象性が「かたち」の幻想性へと生け捕りされることによるのではなく、その時間は、「あらわれ」と「かたち」とが非等質にして異形であるために、「あらわれ」が「かたち」へと切断されるようにむすばれてくるものがある、そのようにして知られるのです。「命の傾き」を示さんがために、たとえば「花びらが開いていく速度を花が消してくれる」、その切断の局面にこそ、舞踏の表現は関わろうとしているのではないでしょうか。「命はかたちに追いすがらねばならない」のは、そうした意味で、つねに「あらわれ」が「かたち」を欲するからなのです。