Friday, May 25, 2007

土方巽研究 一<舞踏の欲望>

 四「病める舞姫」と差異的意識 

2.「病める舞姫」印象

6) 冬の景一
「この冬場に身籠った鳥のように、妖しい虹を眼に流している男が、まわりの人に嫌われながら現われてくることがあった。」
 この「冬場の虹男」の登場は、重要な転換を予告しているようです。その男は、人に馴染むようなことをしない「だめな男」とみなされていますが、土方は、「その男に不用意に近づきたい」と考えています。近づくばかりか、その男と一つになりたいと考えているのです。この男は何者か。「この冬場の虹男は、まわりから作図された大きな幼虫のようなもの」とみなされているように、生まれ変わりの予感をはらんでいるのです。その男は、「自分のからだを潜り抜けようとして苦しんでいる」のです。パフォーマンス冒頭の「生まれ変わりの虫」が、男のすがたに重ねられて登場しているようです。この生まれ変わりの予感が、「身籠った鳥」と言い表されているようです。土方と微妙な関係を抱えたこの男が、土方のからだに関わる仕方は次のようなものです。
「この男のからだはいつも何かを防御しているふうなのに、こちら側の見方の位置をずらすと、私達のからだが調べられているような翳りが射すこともあった。」
 外はいつしか淡雪で明るくなった。「虹男は嫁も貰わないで家の中でただ発情していた」。いっぽう、少年は、家の入り口で鳥のように佇んでいます。するとまた一人、「鳥のように浮きでてきている」男が、山の方からあらわれるのですが、「おそらくこの男は体重計の上になぞ乗っかったこともあるまい」。その男は、湯気の気配のうちにふっといなくなってしまうけれども、そのすがたをいったん隠しただけなのです。

 薄目をして眠っている少年のそばに、「可愛い」埃が幽かに笑っている。「その笑いには音も月日もなく、いろいろな思いが含まれていた」。この埃の笑いには粉のように微細な聴覚が隠れていて、鼓膜に「聞きなれない振動」が伝わってくるのです。この埃の笑いには、「記憶ばかりになったもの」も見えるようです。すなわち、粉のように微細な視覚も隠れているのです。埃の笑いとはいわば、少年がモノのようにして抱え続けている、微細な感覚の動きなのでしょう。この微細な感覚は様々に変化し、いろいろな態勢をとることができるようです。いったん、「この埃のなかに降参しよう」。
 埃に替わって、雪が降り始めます。と、どこからか女がしゃべる声がします。
「なにかしら彼女のからだが写しとっていたものは、夏を過ごしてきた草や虫や鳥や、溶けかかったような蛾が競い合っている空気の一断面だったのか。」
 女のからだは白い画用紙のようになって、これまでの少年の記憶を写しとっていたもののようです。いっぽう少年は、ガラス戸に吹きつけられた粉雪の画用紙に、「変な鳥」の絵を描こうとしています。「だがまだその鳥を描くにはちょっと間があるのだ」。「せっかく私のからだにも翼のようなものが付きはじめているのに」、そう言って、これまでの傷の治療をするといいます。
「私はさまざまな病気をもった人の姿を草や木の根っこの風から嗅ぎ出し、その病の網の目にさまざまなものをひっかけて、こうしてしだいに手に負えなくなってくるのだった。」
「病の網の目」が、ここで「蜘蛛の巣」という少年の微細な神経の網から引き剥がされて、手に負えなくなった土方の病芯として示唆されているようです。そして、「私がどんなに響くような鳥を鋳造しようとしても、みんなこの蜘蛛の巣のようなものに、鳥が発する谺は捕獲されてしまうのだった」と、「蜘蛛の巣」とその病芯とのあまりに密接な関係に懸念を抱いています。この「蜘蛛の巣」は、つい先ほどまでは「埃の笑い」になろうとしていたはずなのです。
「こうして私は、もうどんな昼間の明かるさを持ってきても手術ができなくなっている。」
 しかし、傷の治療や手術がどのようなものであれ、土方のからだは何かしらの予感を提示しようとして、ただ紆余曲折しているだけのようにみえます。というのも、
「私のまわりには、にがりのきいた時空がひしひしとせまっている。」
 からだが抱える流動したものを、土方は新たな態勢へと凝集させようとしている、そんな気配がひしひしと感じられるからです。
 冬になり、土方の感覚は鋭く凝集し始めているようです。かなり微細な神経の震えにまで、その「蜘蛛の巣」を伸ばそうとしているのです。「眠りに逆らうこと」と「眠りに落ちる仕掛け」とが葛藤して、緊張をもたらしているのです。鳥のヴィジョンもまた、今まさに生まれようとしているところです。そこに少年が抱える「埃の笑い」という微細な感覚が、土方のゲル状の事態に介入しようとして重要な要素となってはいるのですが…。

「布海苔でも煮ているのか、ひさしぶりに土間の大釜に湯がたぎっていた。」
 この充実感はどうでしょう。この湯気に浸っていさえすれば幸せなのです。「この幸せの心をなんとか明きらかにしたいものだ」、そう言って、少年はその湯気に首まで浸かっているのです。湯気ほど変幻自在なものはありません。その速度は自在です。そこにからだを差し入れても、湯気はまったく動じない。湯気を見つめることは湯気に見られていることであり、その魅入られたような時間を誰もが知っているはずです。その速度、その変幻自在さ、繰り返しのないその瞬間瞬間の現在に、人はつい見つめられてしまう。そして、その速度、その変幻自在さ、瞬間瞬間の現在を、自分のからだに抱えたいと思う。湯気には、そうした充実感を与える魔力があるのです。
 湯気、すなわち蒸気は一瞬にして爆発する。その爆発するような蒸気が、実は氷のすがたをとっているもののうちにも内在しています。
「軒先に吊り下がったあのつらら鳥、その透明な芯にいつかは齧り付かねばならない。それには相当の我慢が必要だ。」
 つららはけっして鳥のすがたをしているわけではないけれど、土方には飛ぶすがたとして捉えられているのです。鋭利なつららのかたちにではなく、つららの周囲に軋む力の跡に注目しているのです。その力跡とは、大小の渦巻く周囲の冷えた風の牙がつららをかたちづくる、いわば変動するものの痕跡なのかもしれません。
「つらら鳥の芯が飛んでいるのだ。私にも飛べと叫んでいるのかも知れない。」
「埃」ではうまく果たせないでいることが、「湯気」ではうまくいっているようです。しかも、「湯気」と「つらら鳥」の正体はいっしょなのですから。少年と土方は共に、異様に活気づいてきた。湯気の中でいよいよ大胆になり、「釜の湯と、湯掻いた蕗の匂いと、私の信心のようなものがどこかでつながっていた」。
 もう遠くまですっかり雪野原です。何もかも真っ白になって、外のことは何も考えなくてすむのです。
「ふわりと顔が湯気のなかに舞い降りた気がする。すると湯気のなかに大きな明かりを点した灯籠がぼおっと浮かんだ。」
 その浮かび上がる光景のうちに、様々に衰弱したすがたが見えてきます。そして、これまで土方が幾度も繰り返してきた、湯気の中にあらわれくるものとの格闘が始まろうとします。それは土方が挑む、幻想との最後の格闘といっていいような光景です。
「用心に用心を重ねても用心しきれない湯気のなかから私は逃げ出した。」
 土方は、幻想の餌食からいったんは逃れるのですが、ふたたび幻想の罠にはまりかかってしまいます。湯気の中に男が構えていて、土方を幻想に誘い込もうとするのです。すると、「そばで誰かが釜の湯に水でも足したのであろう」、状況は一変します。
「低くたなびく湯気に、古ぼけた運命みたいなものと向き合っている脳味噌が流れて、白い湯の表面に着物を着終わった子供がサッと立ち上がった。」
 さきほどの男が、湯気から逃げてゆくのが見えます。今や土方は、釜の湯に向かって叫び続けている。「そのとおりだ。そのとおりだ」と。というのも、そこに母親のすがたがあらわれるからです。そして母親は、土方に向かって呪文のような言葉を投げつけるのです。「お前には力がない」と。
「そこに水が注がれた瞬間釜の様子が一変した。さっと冴えない蒸気が湯の表面を流れ、すぐさま薄い蒸気が一斉に羽をつけて白く立ち昇り、淋病のような霧が抉られて大口を開けた湯気になって、あやふやに崩れ落ちてくる。曖昧に消えてゆく湯気のなかから、負け蒸気が釜の縁にひっからまったり、除け者にされたり、やや遅れてゆうゆうと殺し屋風な濃密な湯気に混じりあい、あっという間に空気と出会っては立ち去ってゆく。この曖昧なぶつかり合いのなかにいまだかつて見たこともないような親類が棲んでいる。」
「釜の底はがらがら、湯の表面がぐらぐらで、がらがら、ぐらぐらと渦巻くなかに、一切の病が白い浮腫を浮かべては沈み、巻き込まれては浮かび、桁はずれの絶妙なお化け湯となって湯玉を産卵しながら怒り合い、泡の除け者を巻き込み、たちまち一つの輪を作り、霧の雨を覆い被せては、またその輪のなかに戻ってくる。…はっと息を呑むと湯煙にむせんでしまい、暗く見交わしているような草や年月も、犬の魂や私の足も、一切合切掻き集めてガラガラ湯のなかに入っていった。」
 すると不思議にも、湯の渦の中心に、一本の「つらら鳥」があらわれ、湯を掻き回している。
「私はこのつらら鳥と湯の間の明かりに包まれていた。尻に矢が刺さっているような気分もするが、ともかくあたりは大きな灯籠のように明かるい。その明かるさの大きな玉のなかに、いろいろのものを結合させたり、不安定なものをありったけ抱き込んだりして、どんなものが飛び込んでも驚かぬ程そのつらら鳥にくっついて私は火傷していたのだ。」
 このテキストに向き合うパフォーマンスの中で、最も劇的な光景です。土方の「病の芯」に、劇的な転換が起きている。その転換によって、今や土方のからだは「明るさ」に直に触れ、「明るさ」に火傷しようとしているのです。幾度かの幻想に遮られながらも、辛抱強く耐えた結果でした。
 あらゆるプロセスに名前がないように、蒸気や湯気の一瞬々にも名前がない。いっぽう、そのとき湯気を経験するからだには、言葉で言い表せない実に精妙な事態が懐胎されている。言葉で言い表せない事態であるにもかかわらず、それにいっさい名づけることなく、その事態を私たちは生き生きと語ることができる。それは、言葉は錯誤を示そうとするけれども、その錯誤のまさに中心で「火傷」を負うことで、どんな錯誤もプロセスの「明るさ」として示すことができるからなのです。

7) 冬の景二
 最終景が、二つの場面に分けて示されています。一つは黒マントの女の道行きであり、もう一つは黒マントの女が白マントの女の霊と交わす対話であり、踊りです。このことからもわかるように、最終景はこれまでの景と全く違ったものとなっています。少年の記憶と交錯するようにして見出されていた差異の光景は退き、土方の声はいっきに対話の形式へと解き放たれています。そして、そこに色々な声が呼び出されてきます。また、これまで曖昧に変動していた視線はくっきりと見分けられるものとなり、それぞれが明確に展開され、紆余曲折していた語りはまっすぐに進行することになります。そのことによって、全体の光景がひとかたまりになって思い浮かべることのできる唯一の景となっています。
 まず、母親のすがたをした黒マントの女の語りがあり、少年の視線がそれに付き添うようにしてあり、かつて土方が体験したであろう、雪の道行きの光景をまるごと説明する土方の視線があります。黒マントの女の語りはポリフォニーのように、その中にいろいろな声を呼び出し、また呼び出された声がまた別の声を呼び出しています。それとは対照的に、少年は黙し、いつしか脱け殻のようなすがたと化してゆきます。そうしたなかで、土方の気分は静かに高まっています。
 黒マントの女の語りは、言葉の即興です。その内容は、からからに乾いたモノのようにみえます。語りの中に終始、赤のイメージがつきまとっているのがわかります。その赤が、何かしら悪気を払うように感じられます。しだいに、鳥のイメージもあらわれてきます。その声は吹雪の中を歩いています。その語るのを最初に少年は聞いているのですが、しだいに雪の上に取り残されたようになって、そのまま雪の中に沈み込んでしまいます。少年は雪穴を堀りすすめ、ついに雪の洞にみずからを埋葬するようにして、埋もれてしまいます。
 白マントの女が登場すると、黒マントの女との対話はいっきに祝祭的なものになります。白マントの女が歌を歌うと、おそらくいろいろな人物を抱えたすがたに変容している黒マントの女の声もいっしょになって、少年を埋葬しにかかります。よみがえった霊のような白マントの女は、黒マントの女に踊りの極意を語ります。夜の底に浮かぶ白い雪景色の中で、二人の踊りが繰り広げられていきます。それはあたかも、闇そのものが織り成す霊的な光景のようにみえます。
 最初に、白マントが黒マントの踊りに注文をつけます。
「いまあなたが動いたところから三歩さがって一回出ていって、大きく七回りほどして私に明かす胸のうちを嘘偽りなくしゃべってくれ。気など失ってならね、新しい家の棟上げのすまないうちはな。あなたのおどりは生まれたままの重さが残っているから、骨の棒で叩かれねばいけない。そのついでにそこいらの雪の羽ひき毟って、からだにくっつけないと疲れてしまって足ばかりこまごまして、何となくおどりが窮屈になる。だまされるな。」
 黒マントが答えます。
「いまさ、なんだか空気の流れはかってたの、その音聴いてたの。からだの仕掛けが風の洞のなかにポーンと置かれたようになってさ。」
 白マントが注文つけます。
「それにしても身の寄せ場が近すぎたぞ。もっと背中の方から気絶してみせなくちゃ。それだって加減ものだぜ。」
 最初の注文を、土方は自分に言い聞かせているようです。そしてその答えは、自身の状態を見つめる素朴な気持ちということになるでしょうか。そしてもう一度、自戒する。そうしてみると、この対話の中の「気を失う」ことの内容が注目されます。新たな態勢を得るまでは、「気など失って」はならない。「気を失う」ことは、「からだの仕掛けが風の洞のなかに置かれて」、ただ「空気の流れをはかること」にすぎないとされています。しかし、そうだとしても、「身の寄せ場が近すぎ」てはなりません。だから、「もっと背中の方から気絶」してみせることが大事なのです。自己を不明にするとは自己を失うことではありません。そこには暗い背景との距離を自覚した、精妙なやりとりがなされなければならないのでしょう。
 次に、白マントがみずから歌い、踊り、見本を示してみせます。
「からだのなかでぬくめたことを、そこいらの雪にばら撒くように、持ちこたえられなくなったように散ってな、ばら撒くことが肝心なのよ。細かい気持ちなどさらさらいらないんだよ。あなたはまさぐっているからすぐ降参したようなおどりをするが、それはただ、からだがあなたにせがんでいるもので、溺れた男にまだ騙されるようなとこがあるよ。気をつけなきゃ。酒の上澄みをみがくような心得はな、ほらこうやって。」
 しかしこれも、土方が自身を戒めているようにみえます。土方は、からだがせがんでいるものに、それが結果的に「溺れた男」となる幻想に「騙されて」きたわけです。そうではなく、「からだでぬくめたことを」、「からだに持ちこたえられなくなったように」してばら撒かなければならない。それには、「酒のうわずみをみがくような心得」、たとえば行為のさなかの中断にあらわれる、あるかなきかのものをそのまま仲介するような作業が必要とされるようです。
 黒マントが答えます。
 私はそんなふうには踊れない。「おどってる足許深く掘ってくと、雪底に白い葱や牛蒡や湿気た黒い土が注意深くちゃんと生きていた。明かるい色だして、いい色艶だして、ちゃんと眼さましてたよ。それで私も、眠ることで見つけることができたあの場所へさっさと走っていってな、小さな牛蒡や蛙つかまえて戻ってきて、また眠りの続きを見ればいいんで、あまり疲れないようにして、からだの貯えだけで氷のむろに眠っていたいもんだ、とついつい思っちゃうの。」
 要するに、からだに記し記されている作用が生きているものだけを見つけて、あとはからだに蓄えたものの中に眠るように表現すればいいと…。
 白マントが忠告します。
「そいじゃ喉から糸垂らして春先の縁側に座っている爺様と同じだ。毛穴ふさいで冷えたまんま、まわりと何の縁故もなくなってしまうのがおどりのコツだよ。始めのうちは粉肉に帯しめろと言ったが、この二つが絡まって好きなところに向かうようにならなければいけない。」
「つらら鳥」のように、今にも飛ぶような冷えた死体であることが踊りの極意である。このことと「粉肉に帯しめろ」、すなわち粒子状の肉体をそのまま採り押さえること、この二点を絡めて自由自在にならなければならない。
 ふたたび、白マントが忠告します。
「…それにこれはただの風ではないがな。やっぱりダメだった。とてもダメだった。そんな空気の声やらが隠れているあなたのあばら骨はね、いつもじろっと横目で見られている不安というやつさ。そんなあばらと親しく口を聞けるのは、馬車引きの影ぐらいのものだよ。だから、ひとまず風を横に移してな、光の外に立たなきゃいけない。ただ反射しているだけじゃ、病気で人欺くおどりとあまり違わないものね。」
 鏡のように、ただ反射させているからだだけではだめだ。それでは今までの踊りと変わらない。光を反射させるその光の外に、からだの視線を立たせなければならない。
 そのとき、黒マントが「あなた誰だ」と白マントの声を疑うので、白マントが答えます。
「何を言うのだ。あなたが覗いているのは私の顔だよ。私の顔はきれいじゃない、が、井戸の底に映せば、怖がることはお互いさまで、だから腰紐たらしておけと私はあなたに言ったのだ。」
 白マントと黒マントは、違うところにいる一つのものの二つの顔なのです。そして、白マントの方が深く暗いところにいるようです。というのも、黒マントが白マントに面と向かうには、からだに梯子を降ろし、命綱をつけて降りていかなければならないからです。そうでないと、恐怖を感ずるらしい。そして今二人がいるところは、その深く暗いところなのです。
 今度は、黒マントが注文つけます。
「あなたの自来也にはまだ山菜の匂いがついているからそれを全滅させねばならぬ。あなたのからだからは、いい青物を出しすぎるところがあるからね。雪のなかには、にごり鳥もいれば、だらしない蝦蟇もひっかかってる。私はね、雪崩も気持ちの崩れももう一つのものに見えてるし、そういうことは供養済みだから。」
 白マントが踊ってみせます。
「白マントの女は、顎をはずしたビッコの縄跳びをしはじめた。迷い子よけの匂いを嗅ぎにいっていたような鼻が戻ってきて、その縄跳びの顔にひっついた。すると顔の皺や、うっすらと生えた産毛が一緒によじれ、よじれて飛んでいる縄と一つのものになった。」
 見事な踊りです。次いで、黒マントが踊ります。
「黒マントの女はなんだか額のあたりがむず痒く、どうしたらいいかわからないまま、雪の上に四つん這いに這い出して、這い這い幽霊のようになった。」
 これも面白い。その踊りを白マントが批評します。
「身の上話や打ちあけ話など人にくれてやればいい。だってみんな自分のことだもの。だがね、暗い耳の穴を覗くようにさ、昏れかかるようで昏れかからない生半可でやるおどりも捨てたものではないがね。これぞという時にはな、あばら骨から崖が飛んでいってもいいという気持ちになって、やらにゃあ駄目なんだよ。…外見にはだまされるな。」
「あなたのおどりにはねえ、ただひきずられて楽しんでいるようなところがあるからあぶない。表情の一人歩きが多すぎるよ。私を悩ましているのはね。髭をつけたドクロでなあ。その響きが耳にさわるのよ。赤子を凍らせるにはまだ早すぎるさ。もっと紙切れのように赤ん坊捨ててしまわねば、鏡台の鏡掛けに笑われるよ。」
 黒マントが自戒します。
「たしかに私を悩ましているものはそのようなものだと黒マントは思った。いつも畳の点から退いて、あの子の後ろにぴったりくっついているところが私にはありすぎるかも知れない。ただ成り行きにまかせていたら死んでいくのだ。ここであの子のためにも一つがさっとした幽霊にならねばなと思った。」
 白マントが忠告します。
「頭の上に氷の板のっけるところはなあ、ちっとも面白くなくなった気持ちで扱わねばいけないよ。そこが大事なところでな。情けなくなっても、恥ずかしくなっても、中身がなくては着物はつけられね。元々中身がないところに出てゆくのだから、まあ、言ってみればこれがまとめ幽霊とでも言えばいいかな。」
 白マントが語る、踊る心持ちについての最後の忠告を聞くと、黒マントは雪の中に自身の小便の痕をしっかりと残し、「たいそう大切ね」という声をしっかりと残し、ふっとすがたを消してしまいます。一人残された白マントの上を、「情け容赦ない風が素知らぬ顔で」吹いて、どこからか黒マントの歌う、「きれぎれだが力のはいったしっかりした」声がします。このとき黒マントは、白マントのいる深く暗いところから、こちら側に戻ってきたのでしょう。その黒マントの歌う歌は、「病める舞姫」というパフォーマンスをいっきに振り返るような内容になっています。すなわち、「暗がり」のサナギの一生に身を捧げ、眠りをしぼり、そこに朝日を忍ばせ、尿で描かれた鳥…。この尿で描かれた鳥、それがパフォーマンスによって最終的に土方が示す自身のすがたと言えるでしょう。パフォーマンスによって描かれたその鳥は、ただ「染まるだけ」の鳥、そのようなものとして示されているのです。
 こうして黒マントは、白マントと実は重なり合いながら、からだの深く暗いところから戻ってきたのです。そこで羊羹を手にもった、黒マントの歴史が確認されます。その羊羹の切り口には、「形容し難い倒錯した空が小さく映っていた」。「お互いを呼吸していた二人は固く口をつぐんだまま、しだいに青みがかかっていった」。この青みは、羽化したばかりの成虫の、まだ濡れている翅の色のようにみえます。

                ※

「病める舞姫」というテキストに面接する体験には、自身の身体的体験に見つめられるような官能、すなわち感動があります。その体験には、季節が大きな力を発揮しています。季節というものには、「かじかんで何の祖先かもわからなくなっている遠いわたくし」を、すぐそこに息づかせるような力があるのです。季節とは、自己と無関係に私たちのからだをめくり、そして包み込むものなのです。この季節に私たちの「少年/少女」は息づけられ、たとえば周囲の物との感情交換、そしてそのとき活動していたはずの感性の粒子等が生き生きと復権されるのです。しかし、その復権は、はぐれたままにあるのです。すなわち、それは夢のような、非現実的な感覚ではあります。しかし、夢とは、夢を構成する非記憶的なもののその物質性に通じているものなのであり、そこに意味としての現実などはなからありません。ただこの物質性に通じているものの復権には、何という「明るさ」が見出されていることでしょうか。
 土方は、この「明るさ」と、記憶の堆積する「暗がり」との葛藤から始まり、「暗がり」に息づく「明るさ」の抽象力を見出しつつ、そのことを尾行する過程において、その抽象力がすばやく幻想性を帯びる問題にまず向き合っています。抽象力としてのあらわれがかたちを欲するのは「飢え」の本性なのですが、自己をめぐる皮膚とは、この「飢え」の本性に止まり続けることで知られるものなのです。そこで土方のパフォーマンスは、「明るさ」の抽象力のうちに自己の不明にいたるまで滞留するそのことによって、自己をめぐる皮膚が強度に「染まるだけ」という事態へと、道行きを演じようとするのです。この長く、忍耐を要する道行きを「土方の少年」と共に歩ませるものが、「病める舞姫」というヴィジョンなのだと思われます。この「病める舞姫」というヴィジョンは、今見てきた印象からすれば、死に通じるものであると同時に母なるものであり、言い換えればそれは、非記憶的なものの物質性と無意識であるものとが、非等質のまま相互に内包し合うことで表現されているような、土方のからだに懐胎されようとしている「初心」の次元をこそ示唆しているでしょう。
 こうした土方の道行きはそのまま、肉体の闇がいかなるものであるかを示すことになります。闇は、「病める舞姫」が連れて来る「誰もが知らない向こう側の冥さ」、そう見当づけられています。すがたを容易にあらわさないその闇をめぐって、かつて起きた「食べる」ことの作用が「むしられ」、そして「食べる」ことに伴う構成が回収されることなく、ただその作用が再現されようとしているわけです。土方はことに、「食べる」作用がその内容を伴って自己をたちまち構成してしまう「暗さ」に陥らないよう、「食べる」ことの「明るさ」、すなわち主客の転倒する現場を素手で捉えようとすることで、そのとき捉える者が捉えられる、そうした事態を目論んでいるようです。そのようにして土方は、「飢える」ままのからだに接近しようとしているのです。このとき「飢え」は、かたちになろうと欲するままの、すなわち「食べる」に染まるだけの表現として示されようとします。具体的には、土方はこのとき、「土方の少年」という、「食べる」ことの作用を再現すべく時間だけに関わろうとしているようです。そしてその時間の内容とは、「病める舞姫」の印象からすれば次のように言っていいでしょうか。かつて自身に体験された、周囲のモノとの交感において外部が内部として構成されたその現場が、情動、感覚、気分といった量・質・ベクトル共々に備えた強度として今なお捕獲されようとする現在として、土方の主客の不明な事態に再発見されるようにして流れる、そのような時間として示されようとしていると。そしてさらに言えば、こうした時間に関わる表現のさなかにこそ、からだに記し記されたその経験が生の現在として復権されている、そう考えることができるのではないかと思うのです。
 表現という錯誤する働きのさなかにこそ、生が復権されている。そのとき「病める舞姫」を語る土方の声には、土方がおのれのからだに見出している差異に関わることで起きている、特異な現象がみられます。土方の声は、土方が発していながら、そこに次々と自分のものではない声を引き寄せてゆくのです。またその声が別の声と恊働しつつ、新たな声を生み出してゆくと、そのからだに多くの声が響いてきます。それは、死者や人間の声ばかりではありません。物質の声、暗がりの声、埃の声、湯気の声といったものが混じり合い、その論争は、人獣植物物質自然といったものの混有合唱にいたっています。「病める舞姫」のこのポリフォニーは、不思議といえば不思議ですが、土方の肉体の闇という、特異なモノローグに端を発して生じているのです。おそらくこのとき、からだという、肉とモノと霊とが非等質のまま恊働し、そしてやり取りし合う、そうした原理に視線が向けられることで、そこにおのずと変動し、そして声を発するものがポリフォニーを奏でることになる、そう考えられます。このポリフォニーは、何を歌っているのでしょうか。土方は、「舞姫」という始原的であるものと自身の舞踏表現とを繋ぐ関係をより強めることにより、舞踏を受け入れる器、その受容器がいかなるものであるかということを歌い、そして演じているように思われます。「舞姫」とは、人格も顔貌ももたない何ものかです。それを母なるものと言っていいかわかりませんが、そう示唆されているのは、その始原的であるはずのものが、舞踏を受け入れる器が人間を包み込む裸の自然と直面する際に必要とされ、また拠り所とされるものだからではないでしょうか。舞踏を受け入れる器とは、人間的な感情はもとより、個的なものをようようまとめあげようとする主体さえ拠り所としない器なのです。それは、からだに意味なく与えられるものをただ受け入れる器、このむきだしの自然の中にただ人間がいさせられているような冷酷な環境にあってさえ、自然の驚異を黙って受け入れ、そしておのずと表現することのできる器なのです。この器は単独のからだでありながらも、「舞姫」との関係を強めることで、多くの声を響かせるものとなるのです。
 こうしたことが、「病める舞姫」の場合、春には「食べる」ことがアンビヴァレンツなまま際立たせられ、夏の衰弱から秋へとよみがえり、冬にいたって「飢え」が際立たせられることでふたたび始まりにいたるといった、春から冬へと、肉体の闇をゆっくりと移調させるようにして歌われているのがわかります。要するに、この「病める舞姫」というパフォーマンスは、主客の不明な事態にあって演じられているとはいえ、テキストへと厳密に構成された、精妙さの表現と言えるでしょう。