Tuesday, May 29, 2007

土方巽研究 一<舞踏の欲望>    

 六 舞踏の欲望  

1. 視線は逸脱する         

 最後に、以上の考察をもとにして、土方が「舞踏」の一語に託したと思われる生の欲望という視点から、本稿の最初に掲げた「土方巽と舞踏」の主題についてあらためて考えてみたいと思います。舞踏表現の枠から大きくはぐれることになりますが、舞踏表現が「生のかたち」であるとすれば、そうした「かたち」になろうと欲して「あらわれ」ようとする、生が表現するものの方に見当をつけるという意味で、今一度考えてみたいのです。
 私たちの生は、無意識的であることをも含めて何よりも社会的な生なのですが、むろんそうと知れるばかりではないと思われます。たとえば、私たちの生が社会的諸関係の網目にかけられるようにしてその対象となるとき、社会的諸関係が個々の人をつくりだしているという事態が見出されることになるわけですが、そうした局面のみで目前の具体的な人というものを語ることができないのは誰もが知るところです。それは今まで繰り返し述べてきたように、確かに私たちの生を条件づけている身体が社会的諸関係にあって記し記されたものとして目前に知られはしますが、そうした社会的な生としての身体、あるいは政治的構成と言っていいような身体を強力につくりだそうとする力があるいっぽうで、そうした威力を脱するようにして、もしくはその威力に抗するようにして、生がおのずと欲望し、そして表現するような経験として私たちのからだに継承されているものがきっと知られているからではないでしょうか。人間というものの現実を社会的諸関係の総体としてみたカール・マルクスは、こうした生が欲望し、表現するような経験を知っていればこそ、いっぽうで古代の芸術文化の力が、社会的諸関係の発展形態がいかなる段階にあろうとも人間の生の規範となりうる、その語ることの困難な身体感覚の次元を、子供と大人の比喩によって語ろうとしているように思われます。
「…だがそれにしても子供の素朴なさまが大人を喜ばせることはないだろうか。大人が子供より高い段階に立って、もう一度自身で子供の真実を再生産することに励んではいけないのだろうか。子供の性質(自然)には、どの時代にもその時代に固有の特徴が自然の真実のかたちをとってよみがえりはしないだろうか。」(「経済学批判要綱」木前利秋訳)
 マルクスは、「子供の真実」を古代ギリシア自然哲学として熟知していましたが、おそらく土方が舞踏表現する姿勢にあっても、そのからだが強情に抱える内容は異なるとはいえ、こうした「子供の真実」が「自然の真実のかたち」となってよみがえることの身体感覚と無縁ではないように思われます。かりに私たちの生を社会的な生へといたらせるものが、その時代の政治的構成にあるというよりは、むしろその時代の社会的な生とは非等質であるような「子供の性質(自然)」に由来すると考えられるとすれば、今までみてきたように土方は、私たち人間に連綿と継承されているような「子供の性質(自然)」としての生の地点を自覚することによって、その身体表現を開始しているのです。初期の土方は、そうした地点から資本制社会に抗議しています。
「文明化された道徳の全勢力は、資本主義的経済体制や政治体制と手を結んで、肉体を単に享楽の目的や手段、あるいは道具として使うことに強い反対を唱えている。いわんや、ぼくが舞踊と名づける無目的な肉体の使用は、生産性社会にとっての最も憎むべき敵であり、タブーでなければなるまい。ぼくの舞踊が犯罪や、男色や、祭典や、儀式と基盤を共通にしていると言い得るのも、それが生産性社会に対して、あからさまに無目的を誇示する行為だからである。この意味で素朴な自然との闘い、犯罪や男色をもふくめた人間の自己活動に基礎を置いたぼくの舞踊は、資本主義社会の『労働の疎外』に対する、ひとつの抗議でもあり得るはずだとぼくは考える。」(「刑務所へ」)
 土方はこのとき、当時の資本制社会が組織しようとした規律のための諸制度に抗するようにして、もしくはフーコーが描き出しているような規律社会を形成するものに抗する地点から、「舞踊」を開始したのです。そして、土方をそのようにさせる、身体感覚としてよみがえるものを強情に守ることの表現は、たとえ資本制社会に抗するとはいえ、「子供の性質(自然)」をそのまま再生産することの表現へと後戻りするのではありませんでした。土方はむしろ労働の現場で、エロティシズム思想にみられるような、労働によって規律される肉体がその規律を侵犯するようにしてあらわにする「裸である」ものを、自身の表現の素材としてまず見出しているのです。
「彼等の昼の労働の彼方にそれこそみたこともない多彩な舞踊を発見していたから。此の様な素材が私を興奮させる。素材が従来の私の作舞法に激しく挑戦する。」(「素材」)
 従来の舞踊表現に挑戦する土方の「舞踊」は、疎外された人間のからだがみずからを侵犯する、そのことを素材として扱うその作業がそのまま表現となる、そうした行為に向かおうとしているのです。みずからを侵犯するようなからだに関わる視線がそのまま表現となる、いわば、からだに関わる視線の逸脱をそのまま表現とするその身体表現は、表現の同時性において、他の表現に比べて何よりも交換価値に還元し難い面があるように思われます。こうした何ものにも換え難い表現形態であるからこそ、「舞踊」の表現には大きな可能性が孕まれているとみなされたのでしょう。その可能性に身を賭するようにして新たに創造されたのが土方の舞踏表現であり、そしてその表現は何よりも規律社会に抗することのできるような、「人間の自己活動」による武器たるべき行為として開始されているのです。
 舞踏は、からだに関わる視線の逸脱をそのまま身体表現する同時性の表現であることを自覚することにおいて、他の表現形態とは格段に異なっています。それは、身体を貫く神経感覚が目感覚や耳感覚といった他の諸感覚とずれを生じさせ、そのずれの反復が思考へと綜合されるようにして生み出される表現ではないのです。言い換えれば、それは思考を表現するのではなく、目前のからだが事物のようにしてそのまま語ることの表現を欲しているのです。そしてまた、目前のからだが何ものかを生み出すというのではなく、目前のからだが無媒介に何かであるという、表現することの速度を扱おうとするような表現なのです。この速度がなければ、「愛」すら示されないにちがいありません。それゆえ連帯も示すことができない、そう土方は考えていると思います。諸感覚のずれが綜合されるようにして思考の眼差しが呼び出されるそのことに、土方が執拗に抗することの理由が、この速度としてのコミュニケーションを扱い、そして欲することにあると思われます。
 内なる声が「語り」、それを「聞き」、そして「考える」。こうした作用の反復が私たちの思考を構成するとされるのに対して、土方は、「飢える」、「食べる」、「むしる」という仕方でからだに関わることにより、あくまでも事物としてのからだに関わる認識(視線)をすばやく採集しようとしています。思考が、たとえば「規定は否定である」ことを契機にして弁証法的なダイナミズムを示してみせるのに対して、目前の肉体、すなわち自身が肉であることに関わる認識は、その認識の条件であるものを扱うことにおいて自己言及的であり、それゆえ堂々巡りに終始するとふつうは考えられてしまいがちです。しかし、からだに関わる視線(認識)そのこと自体は、自己言及的であることとは別のことです。むしろ、その視線を強いて対象化しようとする認識作業にこそ、自己言及的な作用とされるものがつきまとうことになると考えられます。からだに関わる視線自体は、非等質であるものを絶えず内包しようとする視線であることによって、実はどこまでも見知らぬ局面を切り開いてみせるのです。目前のからだという事物をめぐるこうした経験にこそ、自己を解体することで「自明でない自己」が懐胎されるような視線の逸脱、その視線の変容、そして視線の入れ換えがもたらされているからです。
 こうした、からだに関わる視線が内包するその内容は、おのずと強度を伴うとはいえ、いたって不明なものです。したがって、からだに関わる視線が内包するその内容を成熟させることのために、何らかの形式が必要とされ、そして編み出されたのだと考えられます。そしてその形式は、あくまでもからだが主体であるという条件下にあって、徹底して受け身的な考察によって見出されることになったのです。それが、「舞踏」という形式です。
 その「舞踏」の形式の根拠とされるような考え方について繰り返せば、たとえば、土方が「食べる」と言うとき、「食べる」ことによって、外部を内部へと転倒させることでもたらされる内部があることを言い表しています。私たちの意識は、自然が疎外された内部として働いていると考えられますが、外部が内部となるその飛躍の事態を疎外として示すのではなく、外部を内部へと転倒させるそのときおのずと自己を不明にしている、そうした機会があることを指摘するため、そのように言い表していると考えられます。このとき、自己が不明であるとは、認識不明であったり、また恍惚体験といったものではありません。それは今まで述べてきたように、社会的な生としてまとめ上げられている自己という皮膚をいったん解き、むしろ自己とは非等質に潜在するものを組織化しようとして、そのことを自律的に表現する契機となるような別種の認識活動(視線)を想定しているのです。外部を内部へと「食べる」という言い回しによって、私たちはつねにそうした自己とは別種の認識活動に触れる機会をもっている、そのことが注目され、そうした視線の逸脱にこそ注意を払うよう土方は繰り返し呼びかけているのです。「真空というものが本当は人間の生理の八十パーセントを占めている。あとの二十パーセントは経験とか体験とか、そういうふうなものにすぎない…」(「白いテーブルクロスがふれて」)と語られているように、土方は、この別種の認識活動が現代にあって未開な状態にあることに注目し、それゆえ通常の体験よりも重要視しているわけです。
 思考にとって「真空」にみえる、この別種の認識活動とされるものが、「飢え」という言い方でまず想定されています。この「飢え」は、自己が欲するのではなく、文字通りの意味で、生が欲するような事態を言い表そうとしています。そしてその生は、からだの外と内とを分節しようと欲するのではなく、たとえば「夢の中で叫ぶ子供」が向き合っているような、生が志向するものがからだの表現へとただ欲している、そのように知られているのです。そのからだが傍から見ると、強い情動を発するようにしてからだの捩じれとなってあらわれている、そのことに土方は注目しています。生が志向するものが肉で断たれるようにして発せられるその叫びが、行方を失ってからだの捩じれとなってあらわれているのです。言い換えれば、生の表現が「かたち」へと切断されることで、そこに生が「非在」するようにして身を落としているのです。こうした、生が欲し、からだが叫びを発し、捩じれるその表現を、一転して誰のものでもない生が表現する重さのない事物性としてからだに再生させることで、そのとき、生が表現する仕方が別種の視線として具体的にからだで捉え直されようとするわけです。
 土方の舞踏表現は、こうした別種の視線を認識として示すのではなく、視線が逸脱するといったような、あくまでもからだが語る生の表現として捉えられているために、そのとき表現する仕方はからだであらわされるとはいえ、あとには何も残さない表現の仕方となっています。身体が思考を表現する場合は、表現する主体が思考そのものをまず超越論的に扱い、そして身体技術を駆使することでその思考を描くことができるのでしょうが、舞踏表現が目前の肉体を扱う際に、その別種の視線は肉体を扱う主体が表わすものとして示されるのではなく、目前のからだに関わる視線が逸脱する作用として示されようとするのです。それゆえその視線は、私たちのからだにあらかじめ社会的な生として記し記された事態が錯誤する、そうした現象として再生されることになります。その視線(認識活動)は錯誤する生として経験され、そうした経験として「むしられ」る、すなわち表現されることになるのです。ただし、起源からはぐれていることを自覚するゆえに起源を「むしる」ことのこうした表現は、その錯誤の内容が表現されるというよりも、そのとき錯誤する生が、錯誤であるゆえにそこにはぐれるものを非在させる、その非在を介して外へとコミュニケートしようとする、そうした仕方をしているのです。
 こうした非在をめぐる表現を仕掛けることに不可欠なのが、具体的には、言葉とからだの執拗なやりとりです。私たちのからだはすでに記し記されたものとして目前にありますが、そのように限定されたからだを必要条件としながら、そうしたからだにみずから批判的に接近することが、舞踏の表現を成り立たせているからです。からだに記し記された事態をめぐるこのアンビバレンツは、からだに記し記されたそのことが錯誤する生として経験され、そして目前に「非在するもの」として立ちあらわれることにより、よりアクティブな現象となってからだで捉えられることになります。そして最終的には、言葉とからだの無限的なやりとりを操作し、からだにすでに記し記されたそのことを宛先不明にすることで、記し記されたその内容が生き生きと空回りさせられることになり、その自己の不明のさなかに「非在」に見舞われた、それゆえ外へと開かれたからだが知られることになるのです。
 以上のような、自己を不明にするようにしてみずからの肉体に関わる、絶えまないその視線の逸脱が、その暗さ(内部)の経験が、そしてその経験へと汲み上げられる生が、思考に対して「闇」という言葉でひとくくりにして示されているわけです。こうしたからだをめぐる未整理であるような経験をこそ、土方の「少年」は「口に碍子をくわえて」守り続けているのであり、それゆえそれは、土方が強情に「子供の性質(自然)」とみなしている、そう言っていいようなものに思われるのです。土方にあっては、「少年」の手に握られている風呂敷包みのその中身は、それについて語るいとまが与えられないほど「それは発見されつづけている状態」にある、そのような「自然」なのです。

 しかしながら、闇と言い表されている、目前の肉体とやりとりするこうした視線の逸脱に関わる経験は、思考の明晰さに比べてつねに暗く、それゆえ曖昧な感覚に終始しているようにみなされてきたことも確かです。その経験は、往々にして無規定なものとみなされがちです。肉体に関わる経験のこうした漠とした感覚に培われた身体表現が、どうして社会的生を強力につくりあげることになる規律社会に抗するものとなるでしょうか。
 土方が規律社会に抗するということについて言えば、おそらく土方の「闇」が土方ひとりのものではなく、土方が闇の系譜というものを継承している、そうした考えが拠り所となっているように思われます。この闇の系譜について、たとえば「闇の歴史」は、みずからの歴史に還元不可能な声を探査した果てに、私たち人間が自然を逸脱しようとする身体経験の場において、からだに原型的な経験として継承されているような作用が私たちの生の表現を仲介している、そう語っていました。そして、そうした作用はけっして陽の下にあらわれるのではなく、土方が説く肉体史と同じように、私たちの身体経験のうちに埋没する「闇の歴史」としてしか示され得ないものである、そうした闇の系譜として知られることになりました。それというのも、人間の限界を超えて自由であろうとする人間の欲望が、まさにその同じ身体的な経験の場でみずから形態的な逸脱を生んでしまうことになる、つまり欲望が生じると共におのずと隠されてしまうことになるからです。それゆえ、こうした闇の系譜を、むしろ「欲望する主体の系譜」としてあらためて見出すこともできるように思います。そこで、こうした欲望の系譜と社会的な生とを繋ぐことのできるような、前に「肉体に見出されたアジール」として比喩的な意味で使いましたが、もともと歴史概念である、アジールについてしばし考えてみたいと思います。
 アジールとは場所のことですが、しかし、それよりもまずアジール権として、それはきわめて西洋史的な概念です。「アジールとは、俗世界の法規範とは無縁の場所、不可侵の場所という意味。ギリシア語に由来するフランス語Asyleに由来する。通常、神殿や寺院、教会などがこれにあたる。宗教的、呪術的に特殊な聖域と考えられ、俗世間で犯罪を犯しても、アジールに逃げ込めば聖的な保護を与えられ、世俗権力による逮捕や裁判を免れうるという、一種の治外法権のような性質を持った…」(ウィキペディア)。しかし、アジールに居る間は保護を受けられるのですが、いったんその外に出ると保護を受けられなくなり、そのため罪を犯した者は、外に出て処罰されるのをよしとしない場合には、アジールでの幽閉生活を余儀なくさせられたといいます。アジール権とは必ずしも自由を保証されることの権利ではなく、いっぽうでは自由のために制限されるという現実を抱えていたのです。このアジール権と称されるものが、古代エジプト、ギリシア、ヘブライ人社会にすでにあったことが知られています。そうしたことから、中世日本にも「縁切り寺」のようなかたちでアジール権が発生する場所があった、そう日本の歴史学でも考えられるようになっています。また戦国末の動乱期には、寺社や聖所、山林へ罪人が逃げ込めば、領主の追補の手は及ばなかったとされています。しかし、近代化の波と共に中央政権が強化され、領土の隅々にまでその支配が及ぶと、「権力は真空を恐れ、嫌悪する」とおり、そうしたアジール権はすぐさま廃棄されていったと考えられます。
 いっぽう人類学では、アジールはまた違ったふうに語られることがあります。聖なるもの、すなわち圧倒的で何か物凄い力、人間を激しく拒絶するような力に支配された領域、それがアジールとしての場とされます。その神域では、動植物の殺傷さえ禁じられています。というのも、アジールを支配する聖なるものの掟に服することで、人は自由であるとみなされるからです。それゆえこの自由は、人間であることによって自由なのではありません。たとえば日本の場合で言えば、山伏は山というアジールに入るとき、社会的な自己の生を葬り去り、未生の者となってふたたび山(アジール)に育ててもらうと考えられています。というのも、人間という生の根源には、日常生活では抑圧されてはいますが、それを捨て切ってしまえば人間としての全体性が失われるような戦慄すべき非人間的な部分、すなわちアジールを支配する聖なるものの力に通底するような力があると考えられているからです。人類学の場合、アジールは場所やその場所に発生する権利というよりも、場所を支配するその力に重点がおかれ、なおかつその力が、私たち人間が自然を逸脱しようとする欲望に通底するようなものとして言い表されているようです。
 歴史学者網野善彦は、アジールについて、歴史学と人類学の視点を共に兼ね備えた、とてもユニークなアプローチを試みています。その著作「無縁・公界・楽」のなかで網野は、中世日本における「無主」・「無縁」の性格をもった様々な避難場(アジール)を例示しながら、平民百姓の間で領主の私的所有下におかれることを拒否する力が生き続けていたことを強調しています。そして、その力に強情な原理のようなものが受け継がれていることを認めて、次のように語っています。「アジール(避難所)は、『無縁』の原理の一つの現れ方にすぎない。これまで見てきたように、この『原理』は、きわめて多様な形態をとりつつ、人民生活のあらゆる分野に細かく浸透しているのである。子供時代の遊戯から、埋葬され墓場に入るまで、人間の一生は、この原理とともにある、といっても過言ではない」。どういうことかと言えば、ここで前提とされている「無縁の原理」より以前に「原無縁」という未分化な事態が想定されており、「無縁の原理」は「その自覚化の過程として、そこ(原無縁)から自らを区別する形で現れる」と考えられているのです。そして、無縁の状況が現れるそのときおのずと、無縁に対立するかたちで有縁・有主の状況も現れるとされるのです。すなわち、「私的所有は無所有の原理に支えられて、はじめて成立しえた」ことになるわけです。このとき、アジールという場も、「無縁の原理」を自覚する過程で、「無縁の原理」に倣って、場というものが示す未分化な事態から自らを区別するようにして現れることになります。そして、アジールという場がもつ自覚的な無縁・無主性が、結果的にそれに対立するかたちで、有縁・有主の場というものをもたらすことになる、そう考えられているのです。
 おそらく、無縁の原理というものが、主権的社会の発生と共に、その社会の内に自覚的に現れてくる、そう考えられているのだと思います。それというのも、主権的社会がそれ固有の社会制度を伴って現実的な威力を発することにより、社会の諸制度とその社会の成員として諸制度に服する個々人の体験とが、鋭く交錯するような時点があると想定されるからです。社会的な生と、それを求めながらそれから逸脱しようとする個々の身体的経験があって、その関係が問題として際立ってくるような時点があると考えられるわけです。無縁の原理とは、その質の異なるものを共に抱えようとして、主権的社会の隙間に自覚的に現れてくるもののようです。とすれば、そのときその原理の内には、それ以前の、社会的な生と個々の生とが未分化であった際に知られていたような、身体的経験の変容であるような現象を抱えていることになりはしないでしょうか。たとえば、一時的な形式ではありますが、祭礼という現象に、そのような痕跡を認めることもできます。
 したがって、こうした無縁の原理はけっして遠い過去にのみ現れたものとみなされているのではなく、それはかたちを変えて、たとえば主権が暴力的に交代する際に伴う、指令機構の空白期にさえ現れることになる、そう考えることができるものとして提示されているように思います。たとえば、近代では明治維新後に、現代では第二次大戦後に、そうした原理が働こうとしたと考えることもできるのです。しかし、主権的社会を脅かす裂け目は、それは開かれたと思うとすぐさま覆われようとします。主権的社会という肉はつねに一つのものとして現れようとするために、そこに開かれる裂け目を覆うことに全力を注ぎ、そして終には、裂け目があったという事実さえ見えなくしてしまうのです。 
 こうした事情のゆえに、「無縁・公界・楽」という著作は、結果的には、「無縁の原理」、すなわちアジールを生み出すものを、あたかも逃げ水を追うようにして捉えようとする作品にみえるかもしれません。確かにあるとされるけれども、それを確証するのはつねに不可能と思われるような状況にあるからです。アジールというものの優先性がすぐれて言い表されていますが、その状況を正当に把握するのはとても難しいことです。アジールという場は、それが塞がれている時代には、つねに想像力のうちにしか現れてこないもののようにしてあるからです。しかし、歴史上の記録からありありと立ち上るアジールの陽炎が示されることで、私たちはその存在を疑いたくない、そう思うのです。アジールは空間としてすでに「ない」、そのことを私たちは知っています。それは有主の場に優先して生まれたとされながらも、有主の場に抗するために現れたとしか考えることができない、そうした矛盾する場としてしか現れてこざるをえません。だから、こうしたアジールという概念自体が、とても不思議な概念なのです。アジールについて考えれば考えるほど、逆にアジールに見つめられるかのように、むしろからだに切り開かれるようにして、何ものかが立ちあらわれてくるような気さえします。それゆえ、とりわけ現在において、アジールという視線が、メディアという普遍にしてスペクタクルな装置に抗するようにして、すぐれてはぐれている視線として現れているように思います。そして、そのはぐれるものが非在することで、私たちの自由を求める感覚に力強く訴えてやまないのです。アジールの視線は、その原理性が強情に指摘されることで、「ない」と「ある」との境界面にありありとあらわれてくる、そうした矛盾を孕む場として、私たちの経験の内に新たに再生されようとしているのではないでしょうか。
 もともとアジール権として厳密に定義されていたアジールを、「無縁の原理」という、歴史的というよりも、構造論的な概念を背景にして形式化しようとする仕方には、むしろ視線の逸脱が感じられます。視線が逸脱することによって、矛盾を孕む場といった内部が伴っているように思われます。さらに言えば、こうした視線の逸脱にこそ、「深く遠い文化層」が現在にあっても伝えられているといっていいような欲望が示されている、そのように思われてなりません。その欲望は、仮構された構造論的な欲望というのではなく、たとえば土方が次のように語るような、犯されにくいものとして知られる欲望、そう言ってみたい気がします。
「日本人の肉体というのは独特の空間をもっていて、犯されにくいですね。…人間というのは、自分の一個の肉体の中にはぐれているものにであえないばっかりに、何か外側に思想でも欲望でもいいから外在化して納得したい。しかしそういうとき、日本人の肉体というものは、けんめいにこらえながら熟視すれば、そのはぐれたものにであっていたのではないか、ということをマジメに考えるんです。」(「暗黒の舞台を踊る魔神」)
 概念に犯されにくいゆえに鍵のかからない日本人の肉体、その肉体が熟視する超越性をはぐれている視線に、土方の「日本人」が立ち上がり、そのからだに舞踏の欲望が起動することになるわけです。いわば、そうした身体次元として、視線は逸脱するのです。この視線の逸脱は、超越的に振る舞うものが強いる相対性の視線を逸れるようにしてあらわれるのであり、そうした逸脱が、アジールの身体化とでもいうべき、アジールの日本的解釈にももたらされているように思われるのです。それゆえ、網野善彦が示そうとするアジールを、マルクスが語ろうとする「子供の真実」のように、いかなる社会的形態にあっても私たちの身体経験が受け継いでいる、むしろそう示唆されるような原理として受け取りたいと思うのです。彼が、「無縁・公界・楽」を子供時代に経験した遊びから語り始めているのは、そうすることの理由が強情にあるからなのでしょう。
 さて、「あらわれ」がつねに「かたち」を欲するようにして、社会的な生を実現しようとしてそれとは非等質である「子供の真実」を内包しながら表現する生というものを考えるならば、その生にはおそらく、「闇の歴史」の緊張が示すがごとき、現在の社会的な生と交錯する個々のからだの現実というようなものに向き合うような視線が際立たされているのにちがいありません。そして、そうした視線を抱えるからだが、もしも生が自己表現するような「犯されにくい」欲望に忠実であるならば、からだの現実を変容するような視線の逸脱へと、一歩踏み出すことになるやもしれません。こうしたことから、具体的な避難場所であるよりも、むしろ「無縁・公界・楽」が示唆するような、私たちのからだに反復し反復されるようにして連綿と受け継がれ、超越的に振る舞うものに抗するようにして絶えず逸脱する視線としての、アジールとしての視線を考えてみることができるように思います。そして、そう考えることができれば、土方の闇は暗く曖昧なものであるよりもむしろ、「原始・未開以来の自由の流れをくむ」(「無縁・公界・楽」)ような、生の強靭さが表現するようなものとして見出されることになりはしないでしょうか。土方の「闇」を、アジールとしての視線という、土方のみならず私たちのからだに経験的に受け継がれているものとみなすことで、それは強情に自由を守るがゆえにその時代の社会的な生としてつくられる身体に抗し、生の自己表現を規制しようとするあらゆる装置に鋭く対立して逸脱する、そうした身体次元の視線として捉えることができるのではないかと思うのです。
 土方は実際、舞踏という同時性の表現において、視線が絶えず逸脱し、そして入れ換えられるような、そうした生が自己表現すると言っていいような普遍的で特異な内部に敏感であり続けたわけです。それが何よりも「土方の少年」というすがたが、土方のからだに仮構されていることの理由でもあります。その少年が「口に碍子をくわえて」、内部の視線に偽りの質料を与えようとして何にでもかじりついていくのです。初期の土方は、こうした視線の逸脱を、バタイユのエロティシズム論理にまず見出しています。死刑囚は、死に面接することで生の極北である現在しか知らない。そうした無主の生であるものを土方は一時期熱望し、自身の肉体表現の土台と考え、思考や幸福に抗するようにして、無知と悲惨とを自身の避難所(アジール)とする、そう主張したわけです。しかし、おそらく三島由紀夫による割腹事件が、パフォーマンスというものの遊びを骨抜きにしてしまったのでしょう。土方は、その避難所を無知や悲惨といった疎外認識から、目前の肉体に記し記されているそのことを際立たせるようなさらに暗い(内部の)視線へ求め、そこにたちあらわれてくる肉体批判の視線へと回帰したのだと思われます。その視線の逸脱に、土方の肉体(認識)が背負うはずの歴史性が立ちあらわれてくることになりました。そのとき肉体の闇という、異質であるものを内部へと転倒させることでもたらされている経験(視線)を、誰のものでもない「聖なる土地(アジール)」であると主張し、そうと自覚したわけです。さらに、視線を絶えず逸脱することで要請される差異的経験につねに応答するようにして、「肉体の埋没史」、「包まれた病芯」、「衰弱体」といった内部が見出され、そうした「脆さの精粗」が最初から「ある」とされ、舞踏表現の核心とは、こうしたアクチュアルになるかならないような「あらない(アジール)」の視線を、からだそれ自体が扱うことにある、そう考えられたわけです。その脆さは「適合性の妖精」とみなされるがゆえに、表現的にはたとえばスペクタクルのような強い形式が求められるいっぽうで、それはあくまでも「飢え」ていることで「ある」とされたのであり、そして、この「飢え」がアジール権を明白に主張して「痛いぞ」という叫びを外に向けて発することになる、そうしたことが知られるようになったわけです。

 とはいえ、こうしたアジールとしての視線を掲げてみるだけでは、まだ曖昧なものに終始している感があるように思われます。というのも、「子供の性質(自然)」をよみがえらせようとしてただ戦略的であるだけでは、闇に関わることの表現がつねに状況の困難さに直面していることに変わりはないからです。土方の言葉でいえば、「危機」が、闇に関わることの表現につねに要請されねばならないのです。