Monday, May 28, 2007

土方巽研究 一<舞踏の欲望>

  五 新しいモデル 

3. 衰弱体はコミュニケートする     

 土方の語る言葉は意味を表すというよりも、言葉が自己との関係を断つことで、事物を連れ出して来ます。夢という自己の不明な現象が非記憶的なものの物質性を事物として際立たせるようにして、土方は、重さのないからだの事物性を立ち上がらせようとして言葉を語るのです。土方のからだをめぐる混有という事態が、けっして意味へと繰り延べされることのない事物性として捉えられ、その事物性のままに言葉へと中継されようとしているかのようです。「風だるま」のすがたは、猛烈な風、吹雪、死、寒さ、かじかんだ肉、意味のない声といった物質性によって、土方のからだに痛いほど際立たせられているのです。認識の混乱、自己の不明は、その暗い背景を背負う原理を駆動させて、その物質性をより際立たせることになります。かつて感性の粒子がからだに霧散していると語られたこの非記憶的なものの物質性が、「病める舞姫」のパフォーマンスにおいて十分に確かめられた非記憶的なものの物質性が、観衆の前で語り演じるすがたとして際立たせられようとしているのです。風、吹雪、死、寒さ、泥、虫の噛む音、意味のない声、火のついたような泣き声といったものの物質性が、言葉がからだに連れ出して来る事物性の微粒子となって、土方のからだにおいて恋愛するようにして結ばれ、結ばれたと思うとすぐさま離れる、そうした「分子活動が恋愛している」(「極端な豪奢」)すがたとしてみえてくるのです。
 こうした、事物性の微粒子が恋愛しているかのようなその舞踏表現は、「風だるま」のすがたが「その場で再生されて」と言い表されているように、ばらばらになった事物であるような死者に、土方が面接することから開始されています。それゆえ、「衰弱体の採集」を語りながら土方は、死に頻繁に言及することになります。死が直接言及されないまでも、死が示唆されています。衰弱体を語り演じることとは、死の力を借りて語り演じることのようにさえみえます。衰弱体という、語り演じることがそのままからだの事物性に関わろうとする表現とは、死をめぐる経験であることで、からだがみずから表現するその非記憶的なものの物質性が、そこに微粒子のまま再生されようとしている、そんなふうにみえるのです。
 たとえば、土方は戦死した兄のことに触れて、「ああ、形ってものは、消えるから現れるんだな、消えることによって形ってものははっきり鮮明になるんだな」と、死が与える非在感を語っています。死はけっして取り戻すことのできない、「ない」ものとして目前にあらわれているけれども、その死が、「ない」ことでかたちを鮮明に残すという、錯誤する表現となってからだに再生されているわけです。この錯誤する表現は、量・質・ベクトルといった生が示す強度を伴っていることで、それはけっしてかたちへと「立つ」ことはないのだけれども、かたちになろうとしてあらわれるモノとして、からだに知られることになるのです。こうした、死が与えるモノであるような非在感が、それが行き場なく断たれていることで、衰弱体を語る土方のからだに事物性の微粒子となって再生されているかにみえます。それは、死者という誰でもないものの身振りがからだに立ち上がる身体表現というよりは、病がからだに事物として知られているように、死の非在感が事物としてからだという事物に関わってくる、その間を無限に翻訳する、そうした働きを原因とする表現となっているように思われます。死が与える非在感そのものは、別段特異なものではありません。それは、親しい人の死に際して誰しもが経験することです。その非在感が、事物としてからだという事物に関わってくるそのことを無限に翻訳するという、こうした特異な事態が考えられるのは、土方の舞踏表現がけっして「想像の肉」を繰り広げるのではなく、目前の肉であることに関わろうとして、肉にあらわれるものを肉が切断するという、執拗なほどに重さのないものをめぐる身体表現であることに由るのだと思われます。とはいえ、そこにあらわれる非等質なものを包摂し、中継しようとする目前のからだの感覚なしには、死が与える非在感によって私たちのからだがコミュニケートし合う、まさにそのことの条件が失われてしまうのも確かなことなのです。特異な事態ではあるのですが、コミュニケーションの条件であるこうした事物性として再生される非在感は、とりわけ強調するまでもなく、私たちのからだにすでに知られているものなのです。それにもかかわらずここで強調しようと思うのは、それとは性格を異にする非在感から区別しようと思うからです。それは「想像の肉」、もしくは思考や剰余としてあらわれる非在感のことです。
 たとえば、土方が示す非在とは異なる、もうひとつの非在を例にとってみましょう。ジャック・デリダが死に際して語った言葉が、テキストとして構成されています。そのテキストの中で、死の間際に死について考えることが、生の根源的な意味を際立たせ、生きることを終に学ぶことになる、そうデリダは死の向こう側から語ることになります。
「私が『私の本』を残すとき、私は、出現しつつ消滅してゆく。けっして生きることを学ばないであろう、教育不能のあの幽霊のようなものになるのです。私が残す痕跡は、私に、来るべき、あるいはすでに到来した私の死と、そしてその痕跡が、私より生き延びるという希望とを、同時に意味します。それは不滅を求める野心ではなく、構造的なものです。」(「生きることを学ぶ、終に」2005)
 ここで「すでに到来した私の死」とみずから述べているように、テキストが読まれる時点では、デリダはすでに死んでいるわけです。死んでいるデリダの声が死の彼方から生きているように語る、そのことを予告するようにしてデリダの死が残すとされる、テキストに生き残るこの非在感。この生き残りを執拗に語る声は、生と死が面接し、互いに照らし合うようなところで生まれる、不思議に透明な光に染め上げられているかにみえます。デリダは、自身を見舞う死、その事態をまるごとテキストに向けて語ろうとすることで、死に面接する意識の光学といったようなパフォーマンスを残しているかにみえるのです。しかし、この非在は、いったい何をもってしてコミュニケートしようとするのでしょうか。
 コミュニケーションという視点からすると、この非在を示そうとする位置には、どこか奇妙なところがあるようにみえます。死に見舞われるとは、言うまでもなく誰しもにとって初めての、そしてただ一回の体験であるはずです。そのことを、このテキストは侵犯してはいないでしょうか。現実の死は切断であり、切断によって非在感は生まれるのです。反対に、非在感をもたらすことで、その切断を跨ぎ超えることなど誰にもできないことなのです。そこに、いかなる連続性も保たれることはないはずです。それにもかかわらず、テキストを通じてデリダが死の彼方から生き残りを求める声をかけてくるのです。それは、デリダの死後に発表されるはずのテキストから届けられることになるわけです。死とテキストの絶妙なずれが、企まれたものとして、デリダの意図にかかわらず、テキストとなって仕掛けられてあるからです。そのことがあらかじめ構造的であるとされているがゆえに、いっそう死の倒錯を引き起こさせるその企て、すなわち、コミュニケーションを求めてつねに未来から輝こうとする、死を跨いであえて記そうとするような主体が示されること、ここに異様さがあるのです。厳粛であるはずの死を侵犯しようとするものがあるとすれば、それは未来から光をかざすようにして、けっしてコミュニケートするのではなく、一方的な指令を伝達しようとする、こうした非在による主体の観念を提示するものであるように思われるのです。
 死が与える非在感について言えば、「死は、死者の生をモンタージュする」(ピエル・パオロ・パゾリーニ)のであり、その非在の微粒子はけっして痕跡するわけではありません。それははぐれ、はぐれていることで再編集され続ける、すなわち変動するのです。それゆえ、その生は生き残りすらしないはずなのです。同様に、土方は、消えるからかたちが残ると言います。さらに、踊りは「出現しつつ消滅してゆく」ゆえに、そこにある種の痕跡が残されるというよりは、非在が示されることになるわけです。からだに記し記されているそのことが、非記憶的なものの物質性へと翻訳されようとし、そのときそのつど再生されるものがかたちになろうとしてはぐれ、そして肉に切断されることで、初めて非在がそこに示されることになるのです。それゆえ、切断が非在をもたらすそのかたちは、無媒介な生と言っていいもののように思われます。というよりは、生が錯誤するという意味で、それは生の現象と言うべきかもしれません。
 最後に述べますが、土方は新たな舞踏表現によって、この非在がもたらすような生を、舞台上で示そうとしています。そのとき、生が錯誤する現象は、幻想になるはずのものの微粒子が採り押さえられるような仕方で、からだに記し記されてあるままの物質性として処理されているかにみえます。この事物性の微粒子としてからだに再生される非在は、たとえば「病める舞姫」において明るさとして示されようとするよりも、肉であるからだにおいて錯誤する、そうしたすがたとして初めて際立つものとなるのです。そうでなければ、目前の肉体を介してコミュニケーションするという、そのこと自体が成り立たなくなることになるわけですから。
 こうして、生という現象にはけっしてずれがないという土方が強情に守るものが、コミュニケーションの場に解き放たれ、身体経験を介する仕方で明らかにされることになったわけです。からだ自体にはそのことはもとより知られていたわけですが、後から説明する言葉がそのことを覆い隠しているゆえに、言葉を宛先不明なままにしてからだの事物性を明示するような表現であれば、生という現象は非在としてコミュニケートするのに違いない、そう考えられたわけです。このとき、事物性の微粒子のようにして再生される非在は、生という現象としてとらまえられており、そうした視線からしか生という現象には力が与えらないかのようです。そしてそのこと自体は、私たちが目前にするからだにおいて、最初から完結しているはずだ、そう知られているのです。
 一人一人のからだが完結したものとみなされ、そこに埋没するようにして継承されているものが知られ、そしてそのことが肯定されていればこそ、土方は、舞踏の未完であることにこだわっているようです。おそらく、舞踏がいまだかたちをなさないものであることを、もしくは発見され続けている状態にあることを、晩年の土方は「舞踏の青田刈り」という言葉を掲げて、周囲を牽制していたように思われます。それゆえ「衰弱体」でさえも、それを語り演じることで舞踏表現における新しいモデルとして提示されながらも、それはいまだ実りのヴィジョンを描いているだけかもしれません。土方にしてみれば、舞踏はまだ実りの穂をつけてさえいないのです。闇に遡行しようとすれば、闇の強情さが、未完にして何ものにも拘束されないことを要請するのです。その未完であることの要請が、逆に舞踏のすべてを呼び込むことになるはずなのです。

 さて、以上のまわりくどい話は、実は以下に記す舞台の光景を説明したいがためでもあります。時間的に前後しますが、「衰弱体の採集」を語り演じる以前に、土方はすでに舞台において、非記憶的なものの物質性についての、注目すべき舞踏表現を実現してみせています。それは、衰弱体が事物性の微粒子として再生するものを目前にあらわにし、そしておのずとコミュニケートする、そうした見事な例なのです。もう四半世紀も前のその舞台を、私は実に鮮明に思い出すことができます。
「鯨線上の奥方」以来、土方が芦川羊子を実に七年ぶりに演出するという「景色へ一瓲の髪型」と題する舞踏公演が、1983年四月の八日間にわたって催されました。「景色へ一瓲の髪型」とは、それ自体が舞踏演目というよりも、舞踏イヴェントの総合的な名称で、このとき土方が演出・構成する四つの異なる作品が発表されました。公演チラシには、芦川羊子による「スペインに桜」、多彩な男性舞踏手で構成される「plan Β寺模写」、芦川羊子と田中民による「非常に急速な吸気性 ブロマイド」の、三つの演目が記されているだけですが、それに加えてもう一つ、最初から最後まで芦川羊子による独舞の舞台が発表されました。(ただし、そのタイトルは失念した。)
 その舞台はあとうかぎり、かつて白桃房公演で土方が厳密につくりあげた舞踏表現を脱しようとするものでした。まず、その裸の舞台。むきだしのコンクリート壁のほか、何の舞台背景もしつらえられていません。そして、即物感覚といっていいような舞台照明。さらに、暗転してもその暗転の中に、舞台上手奥に設置された舞踏手の着替えが観客にさらされる現場、すなわち、脱衣しそして着衣するすがたがぼっと灯される仕掛け。そして、轟音がかぶさるさなかでやりとりされる、舞踏手が踊りながら次の振りを求める声と、舞台裾からプロンプターが次の振りを叫ぶ声。さらに、舞踏手に向けて放たれるカメラフラッシュの連続。あのくっきりとした黒のプロセニアムと、一筋の光も漏らさない厳密にして深い闇の中で見せたものとは異質な、雑多なものであふれかえる舞台がそこに展開されたのです。けれども、そうした雑多なものを逆に舞踏が吸収して、舞踏手が操る異様な力へと収斂させてしまっているのです。いっさいの装飾をかなぐり捨て、すべてがむきだしのまま、外に脱するようにして内部がもたらされているような、そんな新たな舞踏表現がそこに示されたのです。
 舞踏手の皮膚は古い瘡蓋をむしりとられ、新たな皮膚がむきだしになってまだ青みがかっている。たとえば、「火気厳禁体」というのがあります。その名称から想像すれば、わずかな火の気にもぼっと幻想が炎となって燃え出すような、危うい表現体を扱っているのでしょう。その体からは、火を点けるだけで、すなわち条件を与えるだけで、幻想へと燃え上がるものがもうもうと揮発しているわけです。(開場前に目にした)土方が今さっき振り付けした振りが、舞踏手によって今にも火が点くところでとどめられています。その幻想へと燃え上がるはずのものが、次々とただ空回るようにして揮発してゆくそのとき、幻想になるはずのものの微粒子が、舞踏手のからだへと採り押さえられているかにみえます。
 最終場面のクライマックス、舞踏手が「幽霊の縄跳び」をする。ますます軽々と立ちのぼるからだの揮発性と、それと対照的な髷の重さ、そのかたちがひときわ際立ってくる。人間であることの原型のようなものと、それがからだに形態的にあらわにしようとするものとの激しいやりとりが、内部と外部とが嵌入し合うかのようにして暴かれ、そしてみえてくる。そのとき、目の前の舞踏手は芦川羊子でありながらも、芦川羊子ではない何ものかに変容してみえたのです。芦川羊子というからだに記し記されたイメージまでもが「火気厳禁体」となってもうもうと揮発し、そこに虚構を支える虚構が、何かしらエネルギーのようなものが、それは必ずしも力というものではないのですが、何か軽々と揮発するエネルギーのようなものが芦川羊子という人のかたちをしている、そうしたむきだしのすがたとなって目の前にあらわれたのです。そのすがたに、判断する間も与えられることなく、ただ心を動かされたのでした。
「忘却のただなかで再発見されるようなものの客観的な本性」(「差異と反復」)、舞踏がその表現を通じてコミュニケートさせるからだの事物性とは、感覚的に言えば、こうしたもののように思われます。

「衰弱体の採集」の講演の後にも、土方は舞踏表現の新たな段階を示そうとしています。同じ年の五月、実に封印から九年目となるアスベスト館開封記念公演として、芦川羊子による独舞作品「親しみの奥の手」が発表されました。そのチラシに書かれた檄文を、最後に掲げておきます。
「物件としての肉体をわたしは考えていたのではない。親しい友だちである肉体を切断すること、夢をさらなる切断にかけてみること。夢の底の痺れた回路がたなびくことはあっても。このたびは痩せた光や、淋しい肉の取り扱いは決していたさぬ。切断が提出されたのにすぎない。髷四のΝΟ3の構造は、アスベスト館に抱蔵されている、きわめて初源的な知識に触れた証左なのである。」