Saturday, May 12, 2007

土方巽研究 一<舞踏の欲望 Desire which is called “Butoh”>

 一 土方巽と舞踏       

 舞踏の欲望とは、「舞踏と呼ばれる欲望」という意味です。舞踏表現の創始者である土方巽は、「舞踏」の一語によって、生の欲望のようなものをとらまえようとしていた、そう考えるからです。個人的な欲求とは次元が異なり、生の欲望は何らかの対象を欲求しているわけではありません。とらえ難いその欲望をめぐって土方がどのように考えていたのかを、私は土方の文章から探ってみようと考えてきました。土方巽の舞台表現はたいへん強い内容をはらみ、土方自身が舞台に立つ立たないの如何を問わず、その強さは一貫しています。そうした強さが、彼の文章にもまた見出されるからです。
 一般的に言えば、舞踏とは、それ以前にかつてなかった、そう形容してもいい身体による新たな表現形式です。土方巽はその舞踏の創始者として強烈に記憶され、現在にいたってもなお、その活動は広く知られています。すなわち、二十世紀の午後、土方巽は舞踏という表現形式を原石から錬り上げ、そしてかたちへと鍛え上げ、その内容をみずから舞台上で示してみせたわけです。具体的に言えば、その表現は1960年代の前衛芸術運動と共に開始され、次いで舞踏の名のもとに技術上の探求が執拗になされ、最終的に、今まで達成されたことのないような身体表現の実現にいたったわけです。その際に注目すべきは、土方が舞踏を創始することで新たな表現形式が示されたばかりでなく、それと並行するようにして、従来の舞踊表現とはまったく異なる、舞踏という表現形式が成立するその根拠が、土方自身によって示されたことです。
 たとえば、バレー・レッスンを受けていた青年期の土方は、「(自分は)『跳ばないを跳ぶ』、『回らないを回る』をやってみよう」(元藤アキ子「土方巽とともに」)という仕方で、西洋のDance表現に対抗しようとしています。このとき土方は、私たちがつねに目前にしているからだ、このからだに関わる仕方を、「回らないを回る」といった特異な手法をもって展開させることにより、今だかつてない舞踏の技法を掘りおこそうと試みたのでした。そして、その技法は見事に実現され、その遺産を受け継いで、現在も洋の東西を問わず舞踏に師事している多くの人たちがいるわけです。
 しかしながら、土方が示した舞踏表現がどのようなものであったかといえば、それは漠然としてしか知られていない、そう言っていいかもしれません。私たちは、わずかに残された土方の舞台記録を映像で見ることができます。それは確かに見る者に衝撃的な印象を与えるものですが、その表現を通じて、土方がいったい何を示そうとしているのか、舞踏と呼ばれるものがそこにどのように見出されるのか、そうしたことは不明なままであるにちがいありません。それというのも、土方の舞踏表現を成立させているその根拠であるものが、いまだ曖昧なままにあるからだと考えます。それゆえ、土方が「舞踏」の一語に託した生の欲望のようなものが見出されないかぎり、私たちにとって土方巽はいまだ手つかずのままにある、そう言っていいかもしれないのです。こうした確認から出発して、土方巽について、すなわちその舞踏表現について、あらためて考えてみようと思うのです。
 とはいえ、舞踏について考えるということに、困難さが伴なわないわけではありません。そもそも舞踏は身体表現としてまず提示されたわけですし、その身体表現である舞踏について言葉を尽くし、何かしら明らかにしようとする作業が、逆に舞踏を干涸びたものにしてしまうおそれがあるからです。というのも、舞踏については、その表現に際して、たとえば「私が何かを表現する」というときの、「私」が「何か」を強いる主従関係のようなものが想定されてはならないからです。私たちが私たちであるということの必要条件であるからだ、舞踏表現はまずこの目前にあるからだにその視線を重ねようとしています。このとき、からだは「私」のからだであるというよりも、目前の肉、その肉の感覚、そしてその肉にまぎれる魂のようなもの等がまるごと重なり合っている、そう言っていいようなものなのです。このからだが舞台上で生の欲望をあらわしてみせるのが舞踏の表現であり、それゆえ、その表現について考えるに際しても、考える者自身が目前のからだとの主従関係をむしりとるようにして、からだに関わざるをえないわけです。こうした原則からすれば、舞踏について考えることは、目前のからだを距離をおいて眺める、すなわち、からだを何者でもない身体として対象化するようなことであってはならないはずなのです。譬えて言えば、舞踏について考え、語るのはこのからだであって、言葉をもってしてではない、そういうことになるでしょう。
 けれども、舞踏の表現があくまでもからだがあらわしてみせるものであるのに反して、土方は、舞踏をつくりあげるに際してもっぱら舞台活動に関わるだけでなく、自身が実現させようとしているその舞踏の内容を補完するかのように、みずから多くの文章を書き記しています。そして、それらの文章は、舞踏家として希にみる「土方全集」というかたちでまとめ上げられてさえいます。一読してわかるように、舞踏を語る土方の文章群は、他の日本語の文章と比べて際立った違いを示しています。それは、他に例をみないような、独特の光沢を放っています。それは詩と同じように、というよりはむしろこのからだと同じようにと言っていいでしょうか、意味の流通や思考の制度の中に放たれるのをあえて拒もうとするかのような文章です。それは言葉が意味するものを示すのではなく、言葉を介して、私たちの素朴な経験がひとつの直接的なものである、そのことに視線を向けさせるような文章なのです。すなわち、私たちが言葉を介してからだに知られる経験には、その認識が感覚と否応なく一つであるようにして経過しているほの暗い現在があるはずだ、そうしたことが暗に説かれているように思われます。そのことはたとえば、「掴むものは掴まれる、しゃべるものはしゃべられる、見るものは見られる」といった表現に端的に示されているように思います。私たちが「掴む」ことの自由な感覚のうちに、すぐさま「掴まれる」という制限がすばやくからだで認識されるというのです。あるいはこう言っていいでしょうか、私たちが「掴む」という能動的な認識に、すぐさま何かに「掴まれた」という受動的な感覚が伴ってくると。こんなふうに、言葉を介してあらわにされる認識と感覚の分かち難さが、逆に経験というひとつの直接的であるものをからだに暗然と浮かび上がらせることになるわけです。
 からだと言葉の関係についていえば、時間的なずれを抱えながらも、二つながら分かち難いものとして、土方には考えられているようです。そのことはたとえば、「最初に荷物がチッキで届いて後から手紙が来る」といったふうに、あえて転倒された関係でとらえ直されています。どういうことかと言えば、ふつうは先に手紙が届いて、これから荷物が来る旨を知らせることになるのですが、そうではなくて、前もって何の知らせもなくチッキで届いているこのからだに、後から手紙の言葉がその由来を知らせることになる、そういうのです。要するに、言葉による知らせはからだという荷物を明示するものでありながら、いつもからだに遅れて届けられているはずだ、そういうのです。からだについてのこうした手紙と荷物の譬えは、言葉より先に、初めから知られている(届けられている)からだがあることを逆に強調しているわけです。そしてそのことは、ふつう手紙が先に届いて荷物が来るのを知らせる場合、すなわち、あらかじめ教えられている言葉があって、その言葉が、後になってからだに知られるものを説明することになる、そうした事態をこそ問題にしているのです。教えられるというよりは、後になって否応なく認識となるものがあらかじめからだに用意される、あるいは経験に則って言えば、からだに記される、というような事態を問題にしているのです。初めから知られているはずのからだがあるというのではなく、私たちはつねに、からだにすでに記されたその内容を遅れて認識するそのことがからだの明示となる、そうした経験をしているということをです。そうした事態に私たちがもしも気づいたならば、掴む者は最初から掴まれようとしている、そんな気分にきっと襲われるにちがいありません。こうした、一方的な経験に見舞われる事態をみずから自覚することによって、実はすでに知られているからだがあるにもかかわらず、後になってそのからだが説明されることになるそのことを疑うがゆえに、土方は逆にからだに記された事態の方へと可能なかぎり遡るようにしてからだに関わろうとするのです。その差はとうてい縮まらないけれど、どこかで、記されたままの言葉が捕獲される瞬間があるようです。からだからむしりとられるようなその瞬間の、その肉の感覚も含めて言葉にしようとする認識の特異な視線に関わろうとするのが土方の作文行為であり、すでに述べたようにそれは、からだを通じて知られる経験を、その認識と感覚とが分かち難くあるまま、無媒介に文章に適合させようとする試みとしてなされているわけです。そうした土方の試みには何よりも、光に照らし出され、既定の遠近法で一方的に整調されるような思考に抗おうとする、ことさら強い傾向がうかがわれます。
 後になって否応なく認識となるものがからだにまず用意されている、そのようにあらかじめからだに記されているそのことを、土方は様々に言い表していますが、特に「記す」とここで言うのは、たとえば人類学者ピエール・クラストルが語っているような、私たちが生まれてすぐさま享受することになる「一方的断定による教育」が目論むものを、そこに想定するからです。無償の義務教育は何よりも法を認知させるのであり、そのことは私たちの幼生のからだに刻印され、忘却しえぬ記憶として記される、そうクラストルは言います。彼が語る仕方からすれば、法—エクリチュール—身体—儀礼—拷問—記憶—法という、同一的なものを装おうとしてなされるその反復は、身体という記述されるものを軸にしてこそ実現されていることになります。言い換えれば、あらかじめからだに記されるというそのことは、私たちが人間社会の成員であるために欠かせない条件なのであり、いわば人間であることの身体をもたらしていることになるわけです。それゆえ、人間であろうとすれば、みずから反復によって培われることのない身体をもたないということはありえません。そうであれば私たちは、肉であるとはいえ、みずから記すことを繰り返してはじめて記されることになる、そうした身体をまずしていることになるでしょう。
 後になってからだを明示するようなものがあらかじめからだに記し記されているそのことを自覚するゆえに、言葉が宛先不明なままからだからむしりとられようとする。からだに記されているときは記していることを知らないから、そのとき記し記されたからだを後になって言葉が説明するそのことを問題とするからです。こうした、からだと言葉の親しさと疑念とが同時に際立たせられているような仕方からすれば、土方の舞踏とは、からだに記し記されているという目前の事態を素材としつつ、そうした事態へと言葉とからだがやりとりするものによって批判的に接近しようとする、いわば肉体批判のようなものをからだに宿そうとしている、そう考えられないこともないわけです。土方が文章に表したものをみるかぎり、土方が独力で実現させようとした舞踏が土方にとって何であるかとは、必ずしも舞台上であらわしてみせるものに限るものではないと考えます。それは、「掴む者は掴まれる」といった経験に見舞われるからだを自覚するよう要請することにより、からだに記し記されたそのことを含めた、いわば人間の生の事実性といったものに面接しようとする姿勢であったと推測されるのです。とすれば、そのことは同時に、舞踏とは土方が独力で創造せねばならなかった運命にあるようなものなのではなく、私たち一人一人の目の前にすでにあるものに関わることである、そのことをこそ示すことになりはしないでしょうか。最初から言葉によって自明とされるからだを扱うのではなく、からだというほの暗い現在の経験に関わろうとすることは、私たちにとって生の可能性を目論むような機会なのであり、その目論みを仕事とすることを、土方は端的に「人間復権業」と表明しているからです。
 したがって、舞踏について考え、そして舞踏に関わろうとすることは、舞踏とは何であるかを明らかにするような作業ではありえません。その問いの答えは、つねにからだにおいて留保されねばならないでしょう。舞踏に関わろうとすることは、私たち自身のからだを、その経験において認識と感覚とがひとつのものであるような現在へと見出してゆく、そうした行為においてなされるはずだからです。そのためにもまず、みずから記すことを繰り返して初めて記されている目前のからだに私たちがみずから注意を向けながら、そこに見出される経験がどのようであるかを、土方と共に見ることです。

 そうとはいえ、「掴む者は掴まれる」といった経験にからだが見舞われるそのとき、何がそうさせているでしょうか。言い換えれば、からだに記し記されるそのことを核として、私という個体を否応なく働かせるものがあるはずなのですが、それが何であるかは私たちには容易に知られないのです。というのも、おそらくそうさせるものは、私という個体とはまったく異質である何かであるからです。この異質である何かとは、漠然とした意味でいえば、たとえば、ミシェル・フーコーが「狂気の歴史」で指摘しているような、「人間にまつわる〈環境・媒体〉」といったもののことです。この「人間にまつわる〈環境・媒体〉」は、私という個体以前からそこにあって有無を言わせず個体を引きずり込み、個体に「私」と記し記させ、「私」として働かせるものなのです。したがって、からだに記し記されたその事態を素材としようにも、そうした事態をもたらしているその異質なものに触れることなしには、そうすることはとうてい不可能だといえるでしょう。そしてまた、目前のからだにあえて批判的に接近しようとする者は、私という個体が手にする現実から出発しては、とうていその目的を果たせないことになります。舞踏はあくまでも目前のからだがあらわすことの表現であるために、私という個々の体を素材とすることで、その表現の出発点としています。それゆえ、その異質なものに自覚的に関わることなどできそうにないように思われます。
 この問題に関して、土方は自覚的に臨み、かつ戦略的に振る舞っているように思います。土方の文章に独特の光沢をもたらしている一つの要素は、少年時代の記憶として語られる部分ですが、この土方の「少年」は、からだに記し記された事態というものをある仕方で土方自身に「自覚させる」、特異なすがたとみなされているようです。

 かじかんで何の祖先かもわからなくなっている遠いわたくしを、近くに息づいているこのわたくしは、一個の童貞体として自覚させるでしょう。そこでわたくしが踊ることは経験の舞踏化でもなく、ましてや舞踏上の熟練でも、すでにないのです。(「犬の静脈に嫉妬することから」)

 からだに記し記されたそのことを、後に「あらない」と言い表されているような、「ある」ことが「ない」ことへと埋没する未生の事態として自覚させるために導入されるのが「童貞体」、すなわち土方の「少年」というすがたなのです。この少年は曲者です。
 たとえば、土方がその少年時代を繰り返し語るとき、そこにはつねに虚弱のイメージがつきまとっているのがみてとれます。少年は「しょっちゅう熱を出して、赤いものや青いものを吐いて」いるのです。この虚弱さは、自分が何かに守られていることの証しである、そう土方は示唆しています。少年時代の「得体の知れぬ熱」が、自分を「虫の息に近づかせるような危うい安堵感とつながっていた」、そう土方は語っているのです。土方の自伝的テキストと評される「病める舞姫」には、虫の息のように微かな被膜を介在させることで危うげに守られている、そのように虚弱な「私の少年」が延々と描かれています。
 虚弱というのは、からだの不安定さをつねに抱えていることです。それゆえ、不安定なからだに条件づけられている「私」という中心も、つねに不安定、もしくは不確定の波にさらされていることになります。つまり、「私」というものが社会的規準に沿って形成され、また成熟するその機会を逸しているわけです。このからだに記し記される事態というものの度合いの弱さのおかげで、少年は未熟な「私」をめぐってざわざわと揺らぎ、出入りするものにつねに敏感であるような危うい状態、目の前の不確定な状態にさらされているのです。こうした状態にあって少年は、ときおり不安定な「私」を差し置いて浮上してくる、不確定性の確かな波に襲われることがあります。「私」という宛名が記し記される以前のからだの未開の機構から、「私」とは無縁なものの何かしらよみがえるような感覚、それが何かに守られていることのように思われます。
 とはいえ、こうした「虚弱」にして「守られている」という危うい身体感覚は、それが身体感覚として語られる場合、それ自体は曖昧なものでしかありません。というのも、不確定性の波が潜在的なものを際立たせるとはいえ、断片から全体が直観されるというフィクショナルな焦点の先にあるものを示そうとして、そのことがことに身体感覚として言い表されるとき、おそらくどんなふうにも語ることができてしまうからです。
 いっぽう、このことを語る土方の少年時代というものに、作為が働いているという事実があります。というのは、現実には舞踏家土方巽のすがたのまま遡ることのできるような少年時代はないからです。土方の実名である米山九日夫少年は実在しましたが、土方少年は実在しません。しかし、だからといって、土方の少年が「ない」ということなのではありません。土方の少年は「ある」のです。それは、後に舞踏家土方巽になるべく存在の種子として「ある」のですし、またそれは舞踏家土方巽を要請し続けるものとして、土方の現在においても成長することなく「ある」という、奇妙な仕掛けのうちに「ある」ものなのです。
 この作為をめぐっては、確かに錯誤が働いているように思います。土方の少年は、土方の現在においても少年として活動している状態で「ある」にもかかわらず、なおかつそれは現在も種子とみなされているような、「あらない」ものだからです。土方が「童貞体」と言い表しているものが、この「あらない」事態を説明しているように思います。「童貞体」は未生であることにこだわり、土方巽という現在にあってさえ個体としての現実に抗するようにして、生が活動するその未熟性をからだに要請するのでした。
 土方がその少年時代を描くことにおいて、特にルールをはずれているのではありません。「幼年時代を描くこと、しかし、それが私の幼年時代であってはならない」とヴァージニア・ウルフが語ったとされるように、少年の種子を宿していることそれ自体が、少年時代の経験そのものを通して表現されるわけではないからです。
 この作為として仕掛けられた土方の少年とは、より人間的な生を生きようとする錯誤と言っていいようなものなのではないでしょうか。すなわち、土方の少年とは、からだに記し記された事態を核として個体を現実に働かせているもの、それを土方は「危機」と自覚し、それゆえ舞踏家土方巽が要請されることになるわけですが、その働きに向き合うことのできるすがたとして仮構されているのです。そう考えるならば、少年のすがたが土方に関わってくる曖昧さは、一転して明晰なものになりはしないでしょうか。土方の少年が「虚弱」にして「守られている」のは、土方が、からだに記し記されたそのことの未熟さを要請することに由来しているのです。土方は、自身のからだに記されたその内容に少年という錯誤のすがたを繰り返し重ねることで、土方という個体に働く生の欲望だけを、素材としてからだにとり戻そうとするのです。そのことは同時に、私たちのからだを容赦なく縛めている異質であるものの強制力をおのずと眺めるようにさせ、そしてその力を緩めようとすることでもあるでしょう。それゆえ、そうすることのために土方の少年という錯誤するすがたは、あたかも生の欲望そのものが表現するような、その志向性においてのみ語られようとするのです。
 もとより土方は、私たちのからだに根を下ろしているある強情さを伴うものに忠実なのです。比喩的に言えばそれは、生のアジール性といったようなもののことです。それは少年(あるいは少女)のすがたをとって、異質である何かに抗するようにして、より人間的な生の志向性を守ろうとするのです。すると、土方の少年のからだは一転して、そこで騙されていたいのに無理やりどこかへ連れて行かれるようなものとなるのです。そことは場所のことではなく、あくまでもからだに起こることです。そこにいて、果てしなく繰り広げられるまやかしの遊戯を生きていたいのに、残酷にも、決められたことを忘れることがないようにとからだに記し記されていくものとなる。土方の少年は必死に熱を出し、口に碍子をくわえて、無理やりからだに同一性を記そうとする電流に抵抗するのです。生のアジール性を放棄できないで、逆に人間にまつわる環境から疎外されている経験を、土方は次のように語っています。「闇の中の電流」(1970)という、舞踏表現の開始について述べた文章です。

 屋根からころげ落ちた時、口に碍子をくわえていた。これだけの理由で故郷を追放された男の、あの風呂敷を握った掌の事を考えると、途端に真っ黒こげになってしまう。

 土方の少年は、屋根の上に自分を「守っている」ものが棲むと感じています。掌に握った風呂敷は紫の濃い闇をたたえ、その中身は「発見されつづけている状態」にあるゆえにいまだ明らかにされていません。この風呂敷を握った掌のことを、私たちはまず考えなければなりません。