Wednesday, May 23, 2007

土方巽研究 一<舞踏の欲望>

 四「病める舞姫」と差異的意識 

2.「病める舞姫」印象

2) 春の景
「春先の泥に転んだ時の芯からの情けなさが忘れられない。喋ろうとしているのに喋られたような、泥に浸されて下腹あたりにひっ付いた木の瘤が叫びを上げているような、自分という獲物がそこに現われているのだった。…転んでいるからだは確かにえじきのようでもあったし、飛びかかってやりたいようなものでもあった。しかしそれもまた心の中の出来事がかたちをおびて見えてきているのではなく、ただ泥にまぶされた切ない気分となってそこに現われているのであった。」
 第三景から、季節が繰り広げられます。その始まりに、よく知られた「春」の場面が再現されています。春先の泥にはまり込んで獲物となった少年のすがたで、その少年のからだを喰らうように、包み込むように、多方面から泥が繰り返し流れ込み、泥と少年は組んづほぐれつとなっている。「情けなさ」で空回りしているその少年のからだの隙間を、逆に泥が埋めようとする。すると泥は、少年を包み込む両生類の被膜となってからだと一体化し、皮膜の外も内も流動状態となる。この泥は、私たちがそこで何度も食べ/食べられ(記し/記され)、そのことによって私たちが生まれているところであり、そうした意味で、人間であることの始まりのような場所と言ってもいいでしょうか。そしてその泥は、同時に蓮の花が生まれる場所でもあり、すなわちそこには宝物さえ埋まっているのです。この泥の中に、「目を醒ましていながら眠っているような赤子」の頭が忽然と転がってくるのを、土方は目にしています。すると、たちまち少年の周りに今にも爆発しそうなものを抱えている雰囲気がぴんと張りつめる。「破裂して実ったもの」が、「病弱の舞姫」の暗さであった。また乳呑児の「ふにゃふにゃとした笑い」は、「姫君」を包み込むものであった。これらの光景は、泥が「赤子」を抱いているのと同じすがたをしているようにもみえます。これらの光景は、かたちをなさないものが集まったその圧力によって、そこに今にも爆発しそうなものが張りつめる、といった共通のゲシュタルトをあらわしているようにみえるのです。

 春は、生き物のからだから赤を滲み出させます。気がつくより先に、すでにからだは春に反応しているのです。すなわち、春を思うより先にからだはすでに春を食べているのです。花粉症の赤、蕁麻疹の赤、扁桃腺炎症の赤、眼の充血の赤、微熱の赤。春の光は赤く、それはほんのり疼くように赤い。しかしそれは、赤になるための赤ではありません。春先のからだは、疼くようなアンビバレンツを抱えてしまっているのです。湿っていながら爆発するような状態や、とろんとしていながら走り出したいような気分を抱えているのです。春という季節に特有のこのアンビバレンツな感覚は、皮膚一枚を境にしてからだがすでに泥を食べて、その流動状態を抱えていることに原因しているのでしょう。生きとし生けるものは息を吹き返し、過剰な生がその薄皮一枚の下に渦巻いているのに、そのとき生の過剰さに一歩遅れをとっていると感じられるような、泥に食べられたからだを見出しているもう一つのからだがあるからです。こうした春先の感覚の餌食になったからだを、土方は犬に託して走らせようとしています。泥を抱えるからだにいっそ火をつめて走り出したくなる。この「犬」とは少年のことですが、するととたんに犬が犬を呼び、犬が追いかけ追いつかれるようにして、イメージが生まれたはなからイメージに追いかけられる土方がそこにいます。そうやって、「踊らされて」くたくたにされた土方に、「踊り」をする少年のからだがやっと見出され、そのからだの詳しい絡繰りが注目されることになります。
「からだを知らない所へ連れて行こうと、怪しい火照りが、空のつくりをはずしたり、骨で風の関節を折るような真似をさせていた。顔も造花のようにたたまれていた。独楽を廻して、その場から忍び足で遠ざかる際の、念ずるような切なさと対になって、この花嫁には、もしかしたら誰も知らない所へ、からだを隠しにいこうとする魂胆があったのだ。癖になったようにこんなことに熱中していると、からだがなんだか、濾されたようになっていたのだろう、下腹の辺りから雪が降っているような、空模様を着込んでしまうのだった。」
 はらはらするような春先のアンビバレンツな事態が、少年の踊りをするからだの絡繰りにも引きずられているのがわかります。まず「からだを知らない所へ連れて」いく、あるいは「からだを隠しに」いくといった表現にみられるように、からだをモノとする感覚が語られています。そこに「怪しい火照り」、「からだが濾された」といった肉の感覚がついてきます。さらに「忍び足で…念ずるような切なさ」、「下腹の辺りから雪が降っている」といった変な気分もついてきます。「踊り」は、こうした少年のからだと肉の感覚が重層的に変動するような場で生まれているのです。いっぽう、このからだの絡繰り自体は、春先の泥の餌食となって解体されたような少年のからだから始まり、そのからだから血の色をした新芽が萌え出るような、からだに疼くようにして出現するものに触発されているふうにもみえます。土方のからだはその変動をとらえて、
「われとわがからだに怪しまれるような困難を感じていた。私は、その怪しむところに踏み込んでいっては、変な時空を抱いていた」、そう言い表しています。そして、この土方のからだに疼くようにしてあらわれた「変な時空」に、ようやく死者たちのすがたが、見出されることになるのです。
「幾重にも重なった段の上で、夥しい白い顔が嵌め込まれたように、正面を向いていた。…その選り好みできない白い顔に、捲かれている写真のように、私のからだは包まれてしまうのだった。私のからだの疼きの中に病芯のようなものが感じられる。」
 死者の顔が並ぶ写真館。それは、かつて土方が登場した「すさめ玉」(「四季のための二十七晩」第二部)の舞台の一場面でもあります。死者の写真に「私のからだは包まれてしまう」と語られているように、その死者のすがたは、写真のようにして少年のからだに印刷されているようです。するとその死者に「包まれ」た土方のからだが疼き、そこに「病芯」が感じられる。土方のからだは少年のからだに印刷された死者のすがたをたどることで、自身のからだに変動するままにあらわれるものの痕跡をたどろうとしているかにみえます。「病芯の震えにふれている」死者のすがたを具体的に次々と映し出し、それら死者の刻印をからだに次々とたどり、そしてその死者の刻印に次々と触れることで、このとき少年の神経は確かに活気づいているようです。その活気は、土方を犬にしてしまうほどです。この少年の活気と土方との、その差異を映し出す関係は、「よく見ると、うるうるした少年の目玉はその少年の目玉に覗かれて廻っている」と見事に言い表されています。この少年の目玉に映る光景に、突然、癇癪玉が破裂する。
 少年の目玉に映る長々とした光景は記憶の光景でありながら、同時に死者に触れるような光景でもあるのですが、
「私が見たその人達には何か怖ろしいものがあり、彼らの忍んだものは、みんな死んだかたちで現われていたのだった。」
 土方のからだと少年のからだは犬のようになってお互いにじゃれつき合い、追いかけたり追いついたりしながら、記憶とモノの交錯する光景の中をずんずん息せき切って進んでいく。進み続けた果てに少年は、家の押し入れの暗がりに「やっと漂着」するのでした。
「じっと息をころしていると、溶ろけていく私のからだは、変に蘇ったような姿になって現われてくるのだった。私がわからなくなっても、わかってくれているようなものが、からだの内側から現われてきていた。私のからだの着換えが始まっていた。」
 ここで「からだの着換え」が語られていますが、それは、春先のアンビバレンツを抱えたからだが薄皮一枚破って、その正体のまま、次元を一枚抜け出てくるような事態にみえます。泥の中に転がってくる赤子の頭と、からだの疼きにあらわれる死者たち、そのあらわれ方と、あらわれに伴う「破裂して実ったような暗さ」が、ここにきて何と共通しているものと知れることか。春先の泥に食べられ、そして変態する虫の緊張を匂わせるような少年のからだが、土方のからだに裸であらわれようとしているようです。土方のからだは、虫であり、少年であり、犬であり、死者であり、土方であるといった複数の細胞が出現するなかに「溶ろけ」、小さな爆発寸前の予感を抱えているのです。
「私のからだが、私と重なって模倣しているような、ちらちらしたサインにとらえられていた。」
 からだに刻印されている記号が解け、そして二重化するようにして土方のからだに感覚され始めているようです。

 水田で農作業する人々の光景を、土方は何か恐ろしいもののように語っています。
「苗代の底の水の光を嘲笑っているような恐ろしい人が、畦を歩いている…。その人たちをじっと見ていると、とても変な気がするのだった。知っていることを話そうともしない死人が、水田の光の中で腰を曲げ、場所をかえては泥のように動きながら、お日様や、風や、水の照り返しを受け止めているようだった。ほつれた髪をくわえた人達のからだの中で、声がすっかり変わって出てくることもあった。からだに遭難が起こったのだろうか。かたい甲羅の虫を踵で踏みつぶして歩いて来る人もいた。熱っぽい冷気がからだを襲っているのだ。変な能力を出すようにすっかり変わったそういう人を見るのは、恐ろしい眺めなのだった。つぶされたように目を閉じ、すげられたように両腕を垂らして近づいてくる男は、義眼を嵌め込んで畦に立って、大きな蛾のようなものを払っていた。ひび割れた種類の泥男には変な陽も当たっていた。水っぽくなって田からあがってくる女のそばで、男たちがどうして後向きになって濡れた着物を乾かしていたのか、私には今でもはっきりわからない。」
 おそろしく異様にデフォルメされた、田植えの光景です。まるで夢の中か、もしくは何も知らない幼児の視線がそのまま捉えたかのような光景です。しかもこの水田の光景は、すぐに変動しがちな土方の語りにしては異様に長く、そこに持続力が感じられます。どうやら、視線がそこに釘付けされているようです。そこに見える人は人のすがたをしているけれど、まるで死んだ人のようです。そのすがたや動きは異様にくっきりしているけれど、見た目には生気が感じられない。しかし、モノに何かしら別種の命が吹き込まれて、その動きが再現されているかのような、抽象力を帯びたすがたをしています。そのすがたは、
「私が呼びかけたにもかかわらず、どんな奈落にその人たちはいたのか。その人たちのからだが隠しているものが私には見えてこないのだった。」
 それまで折りに触れて、少年の記憶の「暗がり」と対照的に語られてきた大人のすがたの不思議さ、そして「彼らの忍んだもの」が、ここに凝結しているようにみえます。そしてその光景は、かつて土方が舞台上につくりあげた、群舞の光景に似ているのです。
「夜通し寝ずにいた鏡のような恐ろしい感じが、私のからだの中に入ってくることがあった。」
 この鏡は、水田の光景に釘付けされている土方の視線を形象化したもののようです。この「恐ろしい感じ」は、実は土方が抱えている視線の方にあるのです。こうした視線がそのまま水田の遠景から家の中の近景へと移されると、そこに変化が起きることになります。大人がまとっていた重い空気がもうすぐそこにまで感じられ、少年は「竦みあがって物陰に潜ん」でしまうと、その「暗がり」から見える光景が以前にもまして異様なものとなるのです。彼らの首はつくりもののようで、死が寸前にあらわれた、幻想人体といったものとなるのです。近景にあって、土方の鏡は、死者をより幻想的なものに仕立てているようです。

 一息入れるかのように、川の中に水揚げポンプが漬けられている。それは、少年たちの「遊びの匂い」を一瞬際立たせるために挿入された、大人たちの農作業とは対照的な光景のようです。
 それもつかのま、ふたたび「幻想人体」が、生きた鶏を少年の目の前で殺して、肉をさばいてみせる大人として見出されています。このとき「荒療治に生け捕られた」少年が、「今しがた捻られた鶏の首の亡霊」の模写をしてみせるのですが、そのとき、土方の鏡、すなわち土方の視線が変質したのでしょう。
「鏡の向きを変えてうしろの景色を浮き沈みさせたりしていると、翳った鏡の表面に、醒めたり睡ったりして歩いている夜道が探れるような感じがしてくるのだった。」
 この鏡はもう、恐ろしい感じをもった硬質な鏡ではなくなっています。そこには、何かしら奥深いものが示されているように思います。鏡と、そこに映し出された光景との間を「老人のようにして往き来」すると、「一匹の精子がふらふらと鏡の中に落ちたような気がする」のです。「幻想人体」の餌食となって模写をしてみせたことで、土方の鏡に命が注がれたのです。古来、鏡に映るそのすがたは、死者と同等とみなされました。鏡には、魂がとりこまれると考えられたのです。土方の鏡は、最初からそうした、「何の混じりけもない」ものをからだに映し出そうとしていたようです。鏡は対称性を写し出すことでそこに緊張を生み出す、という意味で正確無比なものです。それは、像を転倒させている眼球とは違った仕掛けを持っているはずなのです。

「こういう女の人の髪には空洞ができていた。顎骨の張ったでっちりしたその人が、赤い四角な頭の魚を握ってふっている姿は、完成されたフォルムにも見えたし、落魄した女獅子のようにも見えたりした。またこういう女の人は、すぐ、誰も尋ねない場所に立って、鍋釜の墨を包丁で削ったりしていた。そのありありとした、鍋釜の音こそ、人の手が鍋釜に触れている何の混じりけもない音のように聞こえた。」
 こうした母親、あるいは母親以上のすがたを示唆する光景がしばしば挿入されています。また母親ではないけれど、異様な女のすがたが景ごとに必ずあらわれ、きまって周囲に緊張を生み出しています。それは、何ものかを示そうとして示されることがない、そうした事態に潜んでいるような緊張、そんなふうに感じられます。
「こうしてすぐに消え去るものによって繋がれて現われてくる正体を、私は掴まえたような気がしていた。」
 ここにあらわれてくる正体とは、土方がもう少しで捉えることができると考えている、少年のからだでしょうか。というのも、「もう一つのからだが、いきなり殴り書きのように、私のからだを出ていこうとしている」、そう土方に感じられているからです。土方のからだに、ある確信が芽生えているようです。
「取り消す力がない。ただ野放しになっている変化が隅々まで行き渡っている。大きな風景の中を歩いてきたが、私はからだの装置をはずしているのではなかった。」
 土方は一見、記憶を「野放し」にして語っているふうですが、そうではなく、その手続きには極めてはっきりしたものがあります。からだに変動するものを「隅々まで行き渡っている」と感覚しているのであり、漠然とした光景の連なりであるけれども、記憶とその堆積作用という私たちの謎であるような働きに、あくまでも忠実であるようにみえます。その「からだの装置」を「取り消す力がない」ほどに、何か大きな光景に触れているのです。