Tuesday, May 22, 2007

土方巽研究 一<舞踏の欲望>

 四「病める舞姫」と差異的意識 

2.「病める舞姫」印象

1) 冒頭の景
「病める舞姫」は、どこからともなく聞こえてくる声と共に始まっている。
「そうらみろや、息(イキ)がなくても虫は生き(イキ)ているよ。あれをみろ、そげた腰のけむり虫がこっちに歩いてくる。あれはきっと何かの生まれ変わりの途中の虫であろうな。」(括弧の中は筆者による補足)
 何ものが発している声なのか示されないが、この声は土方のすがたを言いあて、そのすがたを浮かびあがらせている、そうみていいように思う。そのすがたはといえば、「生まれ変わりの途中の虫」という、いまだ生の途上にあるもののすがたとして示されているのです。この生の途上にあるという実感は、生を遅らせているような事態として捉えられており、したがって、そうした遅れを信じ、そしてそれに従うような「からだのくもらし方」で、何ものかによって自分は「育てられてきた」、冒頭そのように表明されているわけです。
 次いで、「私の少年」が、「ただ生きているだけみたいな異様な明るさ」という、ぴちぴちとした神経の高まりを帯びたすがたで見出されます。それは、その前に語られている、「からだの無用さを知った老人」の気配に触れることに原因しているにちがいありません。老人の気配に触れることに伴うこの「明るさ」の感覚は、重要であると思います。おそらくこの「明るさ」の感覚は、老人だけでなく、たとえば死者、さらにいえば、モノと交感する際の神経の高まりをも示していると考えられるからです。そのことについて言う前に、冒頭、土方がみずからを虫になぞらえ、「虫の息」するすがたとして示されていることに触れておきたいと思います。
「虫の息」とは、肺呼吸をしない昆虫類特有の気管呼吸のことです。昆虫は全身にはりめぐらされた気管を通じて酸素を器官へ供給するから、昆虫には脊椎動物のように肺呼吸に伴うからだの活動が見られません。そのため、昆虫は生きていながら何か冷たく、生命をもたない機械のようなモノに見えることがあります。まさに「息がなくても虫は生きている」のです。また昆虫は見事に機能的なからだをしており、無駄な肉がなく、要所要所でからだがくびれ、「そげた腰」を持っていることも付け加えておきます。この機械であるかのような昆虫の特性はといえば、幼虫からさなぎ、さなぎから翅をもった成虫へと、内部の変容によって劇的にそのすがたを変えてみせることであることは、子供でさえ知っています。そうであれば、周囲の何の変哲もない「鉛の玉」さえ今は「休んだ振り」をしているけれど、何かしらの機会にそのすがたを変身させてみせるにちがいない、そう思っても不思議ではありません。少年は、周囲のそうした見えない変容への注意力でいっぱいになっているのです。変容を内に隠した気配をもつモノに関わることで、逆に「私の少年」は異様な明るさに活気づくのです。こうした神経の「明るさ」はだから、モノであることの感覚にからだを沿わせるようにしてモノと交感する、そうした神経に生じている事態のようにみえます。「私の少年」は、内に変容を忍ばせているモノに「脈をとられ」て「明るさ」に活気づいている、そうしたすがたとしてまず登場したのです。しかし、この「脈をとられる」感覚は、いっぽうでは少年に危機の感覚をもたらすものでもあります。主客の不明な生は子供に特徴的なものですが、放っておけば、「単調で不安なもの」がからだに乱入し、空虚なものの構築がすぐさま始まるからなのでしょう。そのとき、少年は「事物を捏造する機会」をもつことで危機から逃れようとしていたのだろう、そう声にしたかと思うと、土方はもう次の光景を目にしている。
 少年はしょっちゅう発熱しながら、「何かに守られている」と感じている。そうした感覚を覚えれば覚えるほど、「虫の息に近づける」と感じているのです。冒頭の自身のすがたと繋がっているこの「虫の息」とは、おそらく生が空虚なものの構築となることなく、「何かに守られている」事態と知られているその拠り所を与えるもののようです。こうした拠り所となる「虫の息」するすがたからすれば、発熱状態にありながら「守られている」という確かな感覚が、人間というすでに用意されたすがたに不信感を抱くことに始まっているだろうことは容易に察することができるでしょう。というのも、虫の生は驚異的な現象を抱えているからです。
 昆虫のうち完全変態するものは、最初はみなイモムシのような幼虫のすがたをしているけれど、そのうち動きが凍りついたように止まり、たちまちのうちにさなぎと化します。このさなぎの内部で変態が起きるのですが、外からはこの変態のプロセスを見ることができません。さなぎは、内部で変態するあいだ、外見的にはずっと凍りついたままだからです。このミイラのように皮膜に包まれたからだの中で、何が起きているでしょうか。そこに起きている何かを体験すれば、変態の何であるかがきっと知れるでしょうが、それはおそらく客観的に捉えることのできるような事態ではありません。変態のあいだ、さなぎの内部では物凄い変化が起こっているのです。体内の細胞は流動状態になり、新たな組織へと再編成されようとしています。今までイモムシのかたちを支えていた細胞は壊れ、代わって成虫になる細胞が活動しているのです。その際、成虫になる細胞は、幼虫を支えていた細胞を栄養分として「食べる」のです。こうして新旧の細胞が「入れ換え」を果たすことで、食べる器械であるイモムシが、生殖器械の成虫へと変身するわけです。それは、あまりに特異な成長過程です。この変態の体験を、おそらく主観的に捉えることなど不可能にちがいありません。なぜならばそれは、主体さえもが入れ替わる過程だからです。それは、主体も含めたからだ全体を貫く変容プロセスであり、そのとき展開されるプロセスは、プロセスが目前にするプロセスを呼び寄せるようにして繰り広げられるような、徹底して自己の不明な事態にあるからです。仮に変容の速度を落とせばこのように考えることもできますが、さなぎの内部で起こっているこの変態の強度は、実際それは、私たちには測り知れないものなのです。
 こうした「虫の息」するすがたが抱えているような抽象力が、土方が「私の少年」を見出し、そして語るに際しての、極めて明晰な衝動となっているようにみえます。

「誰でも、甘い懐かしい、そして絶望的な憧憬に見舞われたことがあるにちがいない。ずかずかと自分から姫君に近づき彼女と舞踏する決心をし、姫君の体温を自分の血管の中に抱きしめた経験を持っていることだろう。」
 姫君が、暗がりの中に一瞬そのすがたをあらわします。が、そのすがたはすぐに「ふにゃふにゃとした笑いのみを残して」、乳呑児のすがたに還ってしまうのです。この「ふにゃふにゃ」の身体感覚は、甘く懐かしい。そしてこの感覚は、私たちが「絶望的な憧憬に見舞われる」ことの原因でもあるにちがいありません。なぜならそれは、私たちがかつてそうであった、乳呑児を囲む時空であるからです。乳呑児は自分が何者かわからないし、自分が人間であることさえ知りません。あるかなきかの初心が芽生えてはいるが、いまだ外部も内部もいっしょになって区別がないのです。乳呑児とは、今まさにからだに記し記されようとしている、純粋なる意味の活動なのです。私たちは、そうしたところに生命の充溢を感じているのです。土方が折りにつけて語る「少年の種子」とは、そうした時空をいまだ「自分の血管の中に抱きしめ」ているもののことなのでしょう。
 姫君はこうした「ふにゃふにゃ」からそのすがたをあらわし、つかのま「ふにゃふにゃ」のうちに隠れてしまう。乳呑児のようにかつて私たちがそうであったもの、その気配を今も私たちのからだが残しているものが「姫君の体温」なのですが、そのことを見つめて土方は、「見定め難いまやかしの雰囲気」とか「脱臼したかたち」としか、今は言い表すことができないでいるようです。
「私の姫君は煤けていて、足に綿を巻いていたが、ときおり、額で辺りを窺うような恰好で手には包丁を持っている。」
 姫君が「煤けて」いるのは、おそらく竈の火の番をするのでそうなのでしょう。この「姫君」は、「灰かむり娘」に繋がるすがたをしているのです。すなわちそのすがたは、人類のはるか太古の記憶を繋ぎとめているような、生と死を行き来する者のすがたをしているのです。「足に綿を巻く」という異形の足が、そのことの印です。しかし、土方の前にあらわれる「灰かむり娘」はシャーマンとしてではなく、それは乳呑児のすがたをしています。この乳呑児とは実は、この世に誕生したばかりの存在ですが、そのことによって今まで死の世界に浸されていた存在のようにもみえるのです。死をくぐりぬけてきたこの乳呑児の生が示すものの底知れぬ豊かさに向けて、土方はただ「飢餓感」を訴えるばかりです。それは、かつて自分がそうであったがゆえにの飢餓感であり、またおのれのからだがはぐれるような事態にのみ掴みがたくあらわれているはずのものを、乞い願うような飢餓感なのです。土方は、この飢餓感を強情に守っているようです。煤けて汚れている方が美しく見えるのも、この「飢え」が際立つからなのでしょう。

「しかしめりめり怒って飯を喰らう大人や、からだを道具にして骨身を削って働く人が多かったので、私は感情が哀れな陰影と化すような抽象的なところに棲みつくようになっていた。あんまり遠くへは行けないのだからという表情がそのなかに隠れていて、私に話しかけるような気配を感じさせるのだった。この隠れた様子は、一切の属性から離れた現実のような顔をしていたが、私自身も欠伸されているような状態に似ていたので、呼吸も次第に控えめにならざるをえなかった。」
 土方は、「(少年の)私は感情が哀れな陰影と化すような抽象的なところに棲みつくようになっていた」と言い、その少年のすがたに時間を見透かすような表情が隠れていて、その表情が、私(土方か少年か?)に話しかけるような気配を感じさせる、と言い表しています。そして、その「隠れた様子」、すなわち、少年のすがたを仲介にしてあらわれてくる土方の中に隠れているものの様相について、「一切の属性から離れた現実のような顔をしていた」、そう土方自身が証言しているわけです。しかし、こうした判断を下すことを、つまり、そのことが現実であるかのように示すことを、「呼吸も次第に控えめにならざるをえなかった」と言って、土方もしくは少年が、即座に押しとどめています。いかにも人を惑わすような言いまわしですが、すでに述べたように、土方である「私」と、少年である「私」との差異を念頭において言い表されていると考えれば、そうした光景として見出すことができるのです。
 土方は、ここにあらわれるすがたはすべておのれであると承知しながら、おのれに見出される差異としてのその変動をそのまま語っているようにみえます。そうした変動に沿うようにして土方の声を追えば、次のような事態が見えてくるでしょう。「感情が哀れな陰影と化すような抽象的なところに棲みつく」少年のすがた、すなわち、感情として育まれることのない、感情の手前の状態にある抽象力だけに関わっているそのすがたに、「あまり遠くへ行けないのだから」という、時間を見透かすような表情が隠されているのに土方はまず注目しています。そして、その抽象力のうちに逸脱としてあらわれている表情に注目することで、そこから、「一切の属性から離れた現実のような顔」が変動としてあらわれてくるのです。その変動の軌跡について具体的に解釈することはできないけれど、想像に縛られないようなからだを存立させる神経として痕跡しているはずの、心的な過程としてあらわれている変動であることだけはわかります。が、そうした心的な過程の内容についてさしたる注意を払う必要はないでしょう。見落とせないのは、この心的過程に関わる変動が、土方が「少年」に見出す気分のようなものに関わることに始まり、次いで、すぐさまそこにあらわれる感覚を土方がおのれのからだに見出す、という経緯で言い表されていることです。土方はこのとき、誰のものでもない気分に始まり、そこにあらわれる感覚が注目され、そして感覚からかたちへと変動する時空にあらわれている、その変動の身振りのようなものを際立たせようとしているかにみえます。その心的過程は内容としてよりも、むしろ身振りとして捉える方が興味深く感じられます。心的な磁場があらわれとなり、そのあらわれがつねにかたちを志向するそのプロセスにこそ、土方は注意を払っているようにみえるからです。
 土方は、こうした敏捷な身振りを、「私」であり、そして「少年」であることの、差異にあずけることで示していることになります。それゆえ、テキスト上には、語る土方と、語られる少年との関係のナイーブさがつねに生じているわけです。たとえば、続けてこう語られています。
「私のからだは喋らなかったが、稚いものや羞じらいをもつものとは糸の切れているところに宿っている何かを、確かに感じとっていたらしい。からだは、いつも出てゆくようにして、からだに帰ってきていた。額はいつも開かれていたが、何も目に入らないかのようになっていた。歩きながら躓き転ぶ寸前に、あっさり花になってしまうような、媒介のない手続きの欠けたからだにもなっていた。」
 一つのフレーズに少しずつ差異がもたらされながら、異なるヴァージョンとして反復させているだけのようです。反復によって生じる土方の位置のずれを示すことで、そこにグラデーションという変動する身振りが示されているのです。最初の「私」は「少年」のニュアンスですが、次第にその「私」のからだは、土方の現実のからだに移行してゆくという言いまわしになっているわけです。こんな曖昧さによって変動としての身振りを示すことが可能なのは、声が文字になることによって見出される逸脱を、土方が精確に見つめているからです。いや、逸脱に見つめられているからです。

 一瞬、漬け物を嗅ぐ、いかにも懐かしげな少年のすがたが浮かび上がります。このからだは、前の「媒介のない手続きの欠けたからだ」とは異なって、むしろ記憶に呼び出されたからだ、そう言っていいようなものです。漬け物を嗅ぐ、この「茫とした姿こそ大事なもの」だとされていますが、大事なのはそのすがたではなく、からだに記憶として堆積するものを嗅ぎ出すようにして、少年のからだに隠れている記憶の形成作用に関わる、そのことでしょう。おのれのからだの臭いを嗅ぐという土方のアプローチが最初にあって、そのことが「漬け物」を呼び出している、そう考えられるからです。
 こうした、少年のからだが覚えていると思われる、少年が見た様々な光景を、土方は自身のからだの界面に映し出すようにして次々と描写してゆくのですが、「私は何者かによってすでに踊らされてしまったような感じにとらわれた」という地点に行き着いて、はたと止まってしまいます。この「私」とは、少年が見た様々な光景を自身のからだの界面に再現させて、「踊らされてしまった」からだを感じている土方自身です。ここで土方は、「何者かによって」と指摘していますが、土方が少年のからだに関わるそのとき、この「何者か」が関わっていることに注目したいと思います。この「何者か」は決してすがたをあらわさないのだけれども、影のようにつねに土方の所作に付き添っていて、土方をはたと止まらせるものなのです。この「何者か」はだから、自分がつねに目前にしていながらも、そのくせ果てしないところにある、そう知れるものなのでしょう。この「何者か」を、土方は尾行するのです。すなわち土方は、「私」を語ることで見出されている差異の局面で、声が文字になることでおのずと差異を抱えることになる局面を活用しながら、自分と少年とのからだの差異として見出される変動において、自身のからだに記し記された事態としてどのようなことが起きているのかを、差異が示す混乱のまま示そうとするのです。そしてそのことは、かつて起こったはずの「食べる」ことの(主客構成)作用を、現在として回収するような作業である、そう言ってもいいでしょう。さらに、そうした作業にはいくつかの相があって、そのことは、からだに起きたはずの現象を遡るようにして触れられてきた、様々な事態としてすでに示されています。
 たとえばそれは、すでに述べた、「私の少年も、何の気もなくて急に馬鹿みたいになり、ただ生きているだけみたいな異様な明るさを保っていた」と言い表されているような、わけもなく活気づいた事態として示されているものです。あるいはまた、少年のすがたにあらわれるものを始まりにして、おのれのからだに変動としてあらわれてくる心的過程が、敏捷な身振りとして際立たされようとする事態として示されているものです。そしてさらに、これもすでに述べた、「饐えた昼飯の臭いなどを嗅ぎながら、粉を吹いている酸っぱい茄子の漬け物の色のまわりで吸いあげていった」すがたに言い表されているような、記憶として堆積するものが浮かびくる事態として示されているものです。
 とはいえ、こうした事態は、截然と区別されているわけではなく、それぞれが「喰べ合う」ようにして、混然と示されています。なかでも敏捷な身振りとして際立たされようとする事態は、記憶として堆積するものを出発点とする変動としてあらわれながら、結果的には、他とは異なる局面を示すことになるわけです。土方は、記憶として堆積するものが浮かびくる事態を、からだの「暗がり」と言い表しています。とすれば、わけもなく活気づいた事態は、からだの「明るさ」なのです。土方は、この「暗がり」にことのほか愛着を抱いているのですが、いっぽうの「明るさ」の後を尾行したいと考えているようです。しかし、尾行しようにも、それはそれとして捉えられるものではありません。「明るさ」の事態とは、死者やモノと交感する際の神経の高まりとして、おのずとあらわれてくるものだからです。こうした事情から、からだの「明るさ」に注意を払いながらも、すぐに「暗がり」に転じてしまうことで葛藤する土方のすがたが浮かび上がってきます。そのため、「暗がり」について、土方は次のような観察をすることになります。
「ぼやぼやと立ち昇る湯気の中には、私を笑っているような盲や獅子が隠れていたのだろうか。手で水を縛る思いのようにうまくゆかないもの、難儀なものが湯気の中にも混じってもいた。いまにして思えば、濡れ雑巾に刺さっている魚の骨を懐かしがっているようなところにしか、たどりつけぬ行方がひそんでいたのかもしれない。」
「湯気」は、土方がからだに記憶として堆積するものに関わる際に、呪文のような働きをするものです。それは、パフォーマンス終盤になって土方に重要な転機を与えることになりますが、ここでは、「湯気」を見つめる少年のからだを仲介にしてたどられる神経はうまくゆかない、そう告白しています。そこに力の予感が隠されてはいるけれど、注意しないと、その抽象力はすぐに幻想性の方に傾いてしまうからでしょう。そして続けて、「暗がり」と「明るさ」の関係について次のような分析がなされています。
 少年の記憶の「暗がり」に関わる長々とした光景が語られた後に、
「そういうものを食べているとどういうわけか、家の中から痩せた男がちょろちょろ出てきて、裏の畑に鍬を入れ、葱を抜いたりしていた。木通や李、巴旦杏、茱萸、すぐりなどを喰っているそばを、青い貌をした人が非常に早く走り去っていったのも不思議であった。」
 少年のからだにあらわれている「不思議」の感覚を土方が敏感に見てとっていますが、この事態にいたるまでの少年の記憶の「暗がり」に関わる細々とした光景よりも、この「不思議」の感覚の方にこそ「明るさ」があらわれていることを、土方はここではっきり見てとっているのです。このときこの「不思議」の感覚は、記憶の「暗がり」に呼び出されているモノの光景を通じて生まれているのであり、このモノの光景がつねに少年の注意を引きつけているそのことによって、「明るさ」の気配として連れられて来るのです。
「物も恋する機会をもてないのかと察せられる日が続いた。そんなとき私は、身を捩り地団駄踏んで暴れ騒ぐのだが、からだの中を蝕む空っぽの拡がりの速さに負けてくるのであった。」
 モノと交感する機会がないままからだが放っておかれると、からだはどんどん虚ろなものとして構築されてゆく。その虚ろな自己は、からだに記憶として堆積するものを残留させるばかりで、そのときからだは、からだに起きる生き生きとした現象を見出してはいない。すると、
「どこの家へ行ってもズタズタに引き裂かれた神様の一人や二人はいたし、どこの家の中にも魂の激情をもう抑えきれない人が座っていて、あの懐かしい金火箸を握って金切声を出して叫んでいた。腑抜けになる寸前のありったけの精密さを味わっているこれらの人々を、私は理解できるような気がして、眺めていたのだろう。」
「腑抜けになる寸前のありったけの精密さ」が、からだの「明るさ」に触れている事態として注目されているわけですが、土方は、少年が眺めていた光景を仲介にして、それをおのれのからだの現象として見つめようとしているわけです。そして、この「腑抜けになる寸前のありったけの精密さ」に比べれば、「暗がり」などは「型の亡骸」でしかない、そう考えるのです。
「茄子をもいでいる静かでひょろらっとした人や、ぶぁぶぁ飛んでいる蝶や、あの確かな太さを持っている醤油瓶や、豆炭の重さや金槌の重さだって、寒いところから帰ってきたような浴衣だって、人間の激情をそそのかしているものなのだった。こういうわずかばかりの道具類に接した解剖の場で、疑わしいような惑わされているような不透明なからだはヒステリーを起こしていたのだろう。しかしもしこういう物達の物腰に脅かされている関係から醒めたら、息の方が、ひとりでにからだのなかからでていくようなことが起こるかもしれないと思い、警戒しいしい暮らしを暗く仕立てていたはずだ。」
 モノ(死者)と交感するようなからだの「解剖の場」が、「腑抜けになる寸前のありったけの精密さ」を誘発していることを、土方は確認しようとしています。そうしたモノとの交感がもしなかったら、逆に人の魂のありかがわからなくなるから、そのことが失われないよう、かえって暮らしに「暗がり」が育てられている。ヒステリー、すなわち病は、「明るさ」として息づいている「暗がり」として、かつて共同体においてそれとなく認められていたはずだ、そう言うのです。自己を用意するだけではかえってからだはどんどん空白になっていく、そうした環境がある。自己を用意しながら自己を欺くようにしてからだの空白を埋めているのが、狂気寸前の精密な神経なのだ。そのことはすなわち、記憶の堆積から逸脱するようにして、堆積作用そのものを際立たせているからだがあることを、その神経は示しているのでしょう。
「人間を驚かすキラッとした眼の介入を、無意識のうちに一種の疾病として片付けていたのかも知れない。」
 病は驚異的なものである。病にかかると、人間であるにもかかわらず、超自然力のようなものを示すことになるからです。それゆえ病は、魂を示唆することのできる肉体、すなわち「明るさ」として息づいている「暗がり」として、昔から認められてきたのです。こうして「明るさ」と「暗がり」の二重性が知られることのうちに、「病」、すなわち「病める」ことの内容が示されるにいたります。

「寝たり起きたりの病弱な人が、家の中の暗いところでいつも唸っていた。畳にからだを魚のように放してやるような習慣は、この病弱な舞姫のレッスンから習い覚えたものと言えるだろう。彼女のからだは願いごとをしているような輪郭でできているかに眺められたが、それとてどこかで破裂して実ったもののような暗さに捉えられてしまうのだった。誰もが知らない向こう側の冥さ、この暗い甦りめいた始まりを覚えていなかっただろう。」
「病弱な舞姫」が、少年のからだの「暗がり」から低い声を発している。この「病弱な舞姫」は、土方のからだを、手足のない乳呑児のように解いてくれるようだ。この「病弱な舞姫」は、「願い」というヴァーチャルであるものを包むフォルムでできているようにみえますが、すぐさまそれは、「明るさ」と「暗がり」が一体となったような、「破裂して実ったもののような暗さ」に還ってしまいます。この「暗さ(冥さ)」は、「誰もが知らない向こう側の冥さ、この暗い甦りめいた始まり」であるという始原的な性格を帯びていて、あの乳呑児と死者が重なる時空のようにして目の前に浮かびくるのです。この時空は「病弱な舞姫」の気配と重なって、異様な緊張感と共に出現しています。この「向こう側の冥さ」の始原的な深さを、土方は強調しているのでしょう。そこは、死者との交通路なのか。死者は、「誰もが知らない向こう側の冥さ」にいて、そこに触れようとする者に不思議と輝くような息づかいをさせてくれるのです。その息づかいを求めて、土方は冥さの深みへと降りてゆこうとします。
「何にでも噛みつかれるからだを、構成し捉え直したいと思わぬでもなかったが、この寝たきりの病弱な舞姫の存在の付け根にそって靡いてしまい、私はすぐにこの舞姫に混有されてしまうのだった。」
 こうした告白から、この「病める舞姫」が、「舞姫」という暗い背景に照準を定めようとして、肉体の闇から遡行するようにして語られている、そのことがわかると思います。

「飴の中に巣ができているものを舐めては、私はよく舌を切った。目を患っているアイスクリーム売りの涼しさを、ひやっとする医者よりも際限がないと眺めたりしていた。そして、そういう涼しいところにさしかかると、不意に動きを止めて強張ったりするのである。そのまわりには煤けた思いや蝕まれた影なども棲んでいたが、心配ごととして見ていたようなものが、ふっと安心ごとに変わりもする。そういうものを、ほどいたり消したりする必要がない息の明暗が、私のからだにつながってしまっているのであろう。」
 飴を舐めて舌を切る少年の感覚が、「ひやっと」した「暗い」時空に変動してゆくのがわかります。その「暗がり」にとどまり、その変動に注目していると、影がほどけて安心するような現象がからだに起きてくるといいます。それを「息の明暗」と呼んで、自分のからだに繋ぎ止められていることを土方は確認しているようです。今や、からだの「暗がり」に近づく神経がからだの「明るさ」の神経を呼び出すようにして、おのずとその糸を手繰り寄せているのです。
「暗がりのなかに隠れることを好んだり、そこで壊されたがったりしているものがなければ、どうして目をあけて視ることなどできるだろう。」
 からだの「暗がり」と「明るさ」の二重性はますます緊密となり、「明るさ」と「暗さ」とはそれぞれ相手なしには見出されることがない。そうした「病める」次元の視線で見ると、
「どんな人の寝顔も言い表わし難い化粧をしているように覗かれる。寝床には神様も潜り込むのだろう。からだの寸法も決まるようだ。」
「寝顔」と「化粧」の間に、死が想起されます。この「死」は、乳呑児がくぐりぬけているような「死」であり、「暗い甦りめいた始まり」に交通しているものように思われます。眠っている人を起こしてならないのは、眠りが、魂が裸の状態であり、赤子であり、死に顔であり、私たちが人のすがたから逸脱しようとする際の化粧だからです。その眠りの深みに「神様」が潜り込むようにして、土方のからだは降りてゆこうとしています。
「あの見えているものは確かに馬や牛だが、あれは暗い穴そのものなのか、その穴の中に入って見えなくなってしまうものだろう。」
 目の前の像は、私たちの眼球を通して網膜に逆さまにその像を結んでいる。その像が脳の視覚域へ伝達される過程で、像はあるがままに復元されていると私たちは考えていますが、その復元の過程に何が起きているかはわからないままなのです。眼に見えるものが、眼の働きを隠しているのでしょうか。