Sunday, May 27, 2007

土方巽研究 一<舞踏の欲望>

 五 新しいモデル 

2. 衰弱体は翻訳する        

 衰弱体が自己を不明にするという事態について言えば、それは具体的には前に述べたような、舞踏符に次々と指示されている踊り手のからだの状態をそのまま示していると考えられますが、このとき、言葉にして示された外部を「食べる」ことでもたらされている内部があることになりますが、衰弱体にあっては自己が不明であるとはいえ、むしろその内部の自律的な視線をからだに採集している、そう考えられるわけです。
 繰り返して言えば、「飢え」によってからだが「ある」ことを知る。そして「むしる」ことで、この「飢え」を表現的に際立たせようとします。「むしる」は、目前に構成されたものをめぐって、構成されない事態を欲して、それを別のすがたで際立たせようとするからです。すなわち目前の「ある」をめぐって「あらない」ものを、非在感を際立たせようとするわけです。このとき目前に「ある」ものとは、言葉にして示された外部を「食べる」ことで際立たせられている内部、すなわち肉体の闇とみなされています。けれども、肉体の闇は次々と変動することはするのですが、それ自体は自律的な働きをするわけではありません。この肉体の闇はむしろ、言葉へと中継されることで差異化され、微分化され、その果てに言葉と等質になろうとして身のほど知らずに膨れあがってくる傾向があります。「飢え」を際立たせようとして「むしられ」ているはずの肉体の闇が、「飢え」を見失うほどに言葉の瘡蓋をつくり上げようとする、そうした傾向があるのです。こうした問題に直面して、土方は「衰弱体の採集」を語り演じることで、翻訳という作用を導入しているように思います。というよりは、自己の不明な事態に立ちあらわれる余白を、声へと模写するようにして中継する際に知られていたその認識活動を、「翻訳する」と自覚しているのです。そう自覚することで、このとき翻訳するべく、目前の非等質であるものの間の自律的な関係性をこそ採集することになります。肉体の闇として「ある」ものを差異化させ、微分化させることなく、非等質であるままに、「あらない」ようにして翻訳するのです。このとき、非等質であり続けるものを翻訳するという、無限の翻訳行為に関わることの特異性が知られることになるわけです。それゆえ「翻訳する」とは、字義通りの翻訳を意味するわけではありません。それは、何から何へと翻訳する(還元する)というよりも、目前の非等質であるものの関係を示そうとするために、翻訳作業を示しつつ、しかし翻訳されたその構成は忘れられる、そういった働きを示していると考えられます。この「翻訳」について、土方は次のように語っています。
 まず、からだで採集する事例として、例のごとく食べることが引き合いに出され、そのまま食べることの中断が語られ、そして、
「…こんなふうに、食べるということも、貴重なレッスンになっていくし、これがそのまま舞踏につながっていくのですね。自分に振付けているわけですよ、舞台で。ところが食べられるほうが、食わしている方を食ってしまう。するとなくなりますよ、この無化の運動のさきに無尽蔵な世界が拡がってくる。舞台があって、自分という舞台もある。しかしそれだけでは終わらなくて、その二つの関係をもう一つの肉体が見ている。両方翻訳しているわけですね。」(「極端な豪奢」)
「食べられる方が、食べさせている方を食べる」という面妖な言い回しで、土方は非等質であるものを中継する事態を語っているようです。要するに、このとき非等質であるもののいっぽうが、「食べる—食べられる」の間に際立たせられている、「食べさせている方」のことなのです。この「食べさせている方」とは、「食べる」という行為、すなわちモノを咀嚼するという行為をさせることになる、前に記憶として「配列されている事物」と述べられていた、からだに記し記された事態というものを示唆していると思われます。土方は、「食べる」という行為の中断のさなかで、行為とそれをさせるものとを腑分けしているのです。そして、その「食べさせている方を食べる」ことで、「食べる」ことをさせるものさえもが一瞬対象化され、そして主体化される、そうした事態を自覚しているようです。このとき「食べさせている方」は、土方には富であるような事態としてすでに知られているようです。おそらく、からだに記し記された事態を「事物」と自覚することで、自己の不明という背景に「無尽蔵な世界が拡がってくる」、そうみなされているからだと思われます。こうして、いっぽうにからだに記し記された事態が際立たせられ、もういっぽうでその背後の「無尽蔵な生」、すなわち「柔らかすぎる生」に「振り付ける」という介入の仕方で、土方は翻訳するものを自覚しているようです。
 また、次のようにも語っています。
「本当に無救済的な、刹那に於いて即救済的なものが舞踏家をみまうのであって、最初からその劇場に生まれたようなエクスタシーというのは、原価計算、差し引き残高、肉体というようなかたちでただの泥になってしまう。そこも私は警戒しているんですがね。それが言語の機能で、そういうものによって肉体がとりつけられたイメージの難点ですよ。それをたちまち食べて失くしてしまう。食べさせられる方が飛躍だというようになると、その二つの間を咀嚼する、デリダで言えば、『翻訳する肉体』、アルトーの『器官なき身体』ですね」。(「極端な豪奢」)
 同じ内容を繰り返しているようですが、ここでは身体表現における即興という問題に関連させて、自己の不明な事態に知られる認識活動と、からだに記し記された事態との間を「咀嚼する」ものを、「翻訳する肉体」という言葉で説明しようとしています。自己の不明な事態に知られる認識活動から、「飛躍」してからだに記し記された事態が見出されているのであり、その「飛躍」という表現から、からだに記し記された事態というものが、認識活動とは非等質であるものとして自覚されていることがわかります。
 デリダの「翻訳する肉体」が具体的に何か知られませんが、つとに知られたアルトーの「器官なき身体」との関連で言えば、土方はからだに記し記された事態というその身体を、超越的な視点をもってして眺めるのではなく、その身体へと蹲るようにしながら、その身体が人間の生の叫びに重なるようなモノとみなしている、そのことが強調されているように思います。したがって、「翻訳する肉体」とはいえ、何が「翻訳する」かは明らかにされえないことになるでしょう。それゆえ「翻訳する」とは、たとえば前意識を意識へと還元するというようなことであったり、何かから他の何かへと置き換えるといった作業ではありえないわけです。
 ここでデリダの名が言及されていますが、「翻訳する」は、デリダ的な「転移」に由来しているのでしょうか。「転移」とは、もともとフロイトが掲げた言葉で、精神分析の治療過程において、被分析者が、その幼児期に経験した主体—対象間に交わされた関係を再現しようとして、過去に抱いたその感情を目前の分析者に対して向けるようになる、そのことだとされています。これを、被分析者が分析者に向ける感情転移といいます。いっぽうこの転移は、被分析者側の病理によって、逆に分析者の側に引き起こされる場合もあるとされます。デリダ的な「転移」は、こうした精神分析の現場で起こる対称的な現象から敷衍されて、デリダ自身がみずから主体—対象間に交わされる関係を反復することで、この場合は対称的ではありえませんが、主体—対象間のその関係を転移する、すなわち位置関係のずれを示してみせることになります。このとき反復するものは、同一のものとして反復されるわけではないのです。反復の身振りだけが同じであって、反復するものも反復されるものも、反復する前と同じであることがないのです。このように「着衣の反復」(ジル・ドゥルーズ)は、必ず反復する主体—対象の位置関係のずれをもたらしているのであり、いわゆるデリダの脱構築は、こうした反復による位置関係のずれと共に実践されると考えられています。こうした、デリダ的転移—転位を考慮に入れると、たとえば土方は、最初は肉体の闇という暗い視線の反復それ自体を際立たせていただけですが、舞踏表現が鍛えられていくにつれて、からだに棲むとされる死者である姉と交わす関係を反復することで、死者との関係において、容赦ない位置のずれをからだにもたらそうとする方に向かっているようにみえます。そして、そうした死者との関係における位置のずれこそが、土方に、何かしら無尽蔵なものを与えているように思われます。そのとき土方は、死者というモノと、死者というモノを抱えて自己が不明である事態との関係を絶えず咀嚼—反復することで、「翻訳する肉体」というものを見出していることになりはしないでしょうか。とすれば、デリダ的な転移—転位が、たとえば「病める舞姫」で繰り返し操作されている、土方が土方の少年と関係する位置のずれを差異の航跡として示すような身振りにはっきりとあらわされている、そうみなすこともできるように思います。デリダ的転移—転位は、「それが表れたものとして、アパリシヨン(幽霊—あらわれ)となってわかる」(「極端な豪奢」()内は筆者の補足)と語られていることから、土方が舞踏表現する際の一方法として、すでに自覚的に扱われてきたもののように推測されます。それゆえ、「二つの間を咀嚼する」という仕方で反復され、そこに行き来するものをたどることが土方のからだにはすでに知られており、その作業をデリダ的転移—転位と了承し、それを「翻訳する」、そう土方はみなしているかもしれないわけです。しかも、このときからだにアパリシオン(亡霊)のようにして立ちあらわれるものが、「からだの入れ換え」という、肉体の闇とは別種の視線として、土方によってすでに提示されてもいるわけですから。
「翻訳する」とは、そこに亡霊のように立ちあらわれるもの、その誰のものでもない別種の視線をからだに際立たせることで、混有のまま混有に内包されようとする非等質であるものの中継、そうした事態へとより明瞭に関わろうとする作業だと思われます。その非等質であるものの中継という局面からすれば、「翻訳する」とは、かたちからあらわれへと変動する、その変動に注目することで、結果的に言葉へと中継され、言葉が採集される事態に関わることではなく、むしろ、あらわれがかたちを志向するその非等質であるものの間を、言葉を断つことであえて横断するような事態を、その現場を、採集するものとして示されているようにみえます。そのとき、肉体の闇というヴァーチャルなものは、それとは非等質な言葉という事態へと置き換えられてしまうのではなく、ヴァーチャルなそのあらわれがかたちへと志向するままに、比喩的に言えば、手元にありながら掴むことのできない彼方にあるといった、非在するまま際立たせられる事態へと受け渡されることになるのでしょう。というのは、このときその非在感はからだに緊張として際立たせられつつ、翻訳不能のまま採集されることで言葉は断たれ、言葉へといっさい対象化されない事態として制御されるからです。そのとき、その非在感は、土方のからだに「死んだ身振り」として採り上げられているのです。たとえばそれは、「夏場でも冬の間に下駄の間にはさまった雪を落すわけです、玄関で。夏に、ガタガタガタガタっと下駄を鳴らして、冬場のそういうしぐさが夏場になっても抜け切れない」(「衰弱体の採集」)、そうした身振りとして採り上げられるのです。夏場にどうして下駄に雪がはさまっているのでしょうか。むろん、足に冬場の仕草がどうしようもなく記されているからにほかなりません。が、そうではなく、いや、それ以上に、無主であるはずのはぐれた足が生き生きと雪を想うからです。こう語りながら、おそらく新宿文化ホールにいる土方の足下には、誰の記憶ともされない、亡霊のような雪原が一瞬広がったに違いありません。
 無主であるはずのはぐれたその足が生き生きと雪を想い、足下に暗い背景としての雪原を亡霊のように広げて見せるかのような、からだがかつてみずから記したそのことをからだで語らせる仕方が、「翻訳する」ことの効果であるように思われます。こうした翻訳効果によって、土方は、肉体の闇がインフレ状態になるのを抑制するのではなく、その膨張する性格によって、かえって肉体の闇そのものの価値を高めようとしているかにみえます。非在感とは実は、こうしたはぐれるものの価値がいっそう高まるところに際立つもののようにみえるのです。からだに記されたというよりは、からだがみずから記した事態を語らせるという、土方の舞踏表現の核心であるようなひとつのすがたがここに見出されていると思います。したがって、衰弱体とは、非在を際立たせようとして、非等質であるものをそこに中継(翻訳)する視線を採集するという意味での、新たな表現体なのです。それは、みずから記した事態へと遡ろうとするからだが、そのまま表現する体としてあらわれてくるのです。「飢え」、「食べる」、「むしる」という闇の構造に大きな変化が起きています。中継としての「翻訳する」という、非等質であるものに関わろうとする、いわば複眼的な視線が採集されているからです。

「衰弱体の採集」という、自己を不明にすることでその余白に立ちあらわれるものを主題として語り演じられる表現は、肉体の闇、すなわちからだに関わる単眼的な視線を、からだと言葉が混有するような事態として、土方が翻訳するという中継地点を軸にしてあらためて複眼的に捉え直そうとする作業だと考えられます。もともと身体表現である舞踏が、からだの側から言葉とからだの関わりへと、そのようなひとつの視線へと、その視線を重ねようとするものであったとすれば、そうではなく、言葉の側からその視線をからだの視線に重ねるようにして、言葉とからだのまるごとの関わりに複眼的に関わろうとする作業として示されているように思うのです。このとき土方は、舞踏する主体をとりまとめているような時間に、言葉の側から相対するように(翻訳するように)して舞踏表現している、そう言うことができるかもしれません。その背景には、からだが健康という幻想によって整理—管理されてゆくいっぽうで、言葉もまた情報と化してゆく、そうした社会状況が土方には察知されているからなのではないかと推測されます。それゆえ土方は、言葉をからだと混有させるようにして言葉と自己との関係を断ち、非等質であるもの、すなわちからだの事物性へと言葉を意識的に関わらせつつ、そうすることで言葉が意味する剰余を伝達するような事態に抗し、むしろ言葉が示す事物を連れ出して来ようとするのです。
 言葉という明晰なものが薄暗い肉に預けられ、その非等質であるものが中継される現場を翻訳という仕方で複眼的に採り押さえることで、このとき言葉によってからだに染め上げられる抽象力を、土方は外に向けて表明しようと企てているかにみえます。闇がこぼれるというよりも、より明瞭な仕方で、舞踏のエロティシズムのその抽象力が外に向けて示されようとするのです。そうであれば、言葉で語り演じるパフォーマンスがそのまま、からだという事物に意識的に関わることの表現として、土方自身によって示されていることになります。からだの事物性、それはすでに述べたように肉のことではありません。それは、感性の粒子が「恋愛」するようにして群がることで、からだに錯誤としてあらわれるものが量・質・ベクトルといった強度を伴って際立たせられる、そのような「立たない」事物性のことなのです。たとえば、からだがみずから記したはずの、言葉で語ろうとしてもとうてい語りえぬその行方不明にあるものをめぐる非在感を、はぐれたからだが語ることになるというそのことが、そしてその体験が、そうした事物性というものをよく表していると思います。「翻訳する」は、それ自身の差異を解消することなく、差異そのものの運動として扱おうとすることで、からだに非等質であるものの関係を際立たせながら、こうした「立たない」事物性を、いわば重さのないからだの事物性としてその身を立たせようとするのです。したがって「翻訳する」は、生が錯誤することのあらわれを非在感として示してみせること、それのみを効果として際立たせるのではありません。それは重さのないからだの事物性を示そうとするという意味で、表現として極めて実践的な効果をもたらすものとなっているのです。「翻訳する」ことで、非在感が事物性としてその身を立てることによって、外のからだに向けてはっきりとコミュニケートする、そうした特筆すべき効果を伴っているのです。